2013年9月28日土曜日

Lesson 65

私の唯一の役目は、神が私に与えた役目です。
My only function is the one God gave me.

今日の新しい見方は、救いに対するあなたのコミットメントを再び宣言するものです。
The idea for today reaffirms your commitment to salvation.
それはまた、あなたにはそれ以外の役目は何もないことをあなたに思い出させます。
It also reminds you that you have no function other than that.
これらの思いの両方とも、完全なコミットメントに必要であることは明らかです。
Both these thoughts are obviously necessary for a total commitment.
あなたがまだ他の(自我に基づく)目的を大切にしている限り、救いがあなたの唯一の目的ではあり得ません。
Salvation cannot be the only purpose you hold while you still cherish others.
救いをあなたの唯一の役目として100パーセント受け容れることには必然的に二つの段階が伴います。
The full acceptance of salvation as your only function necessarily entails two phases;
まず、救いをあなたの役目として認識すること。次に、あなたが自分自身のために考えだした他のすべての(自我に基づく)目標を放棄することです。
the recognition of salvation as your function, and the relinquishment of all the other goals you have invented for yourself.

これが、この世界の救い主の中にあなたが帰り、その場所にとどまる唯一の方法です。
This is the only way in which you can take your rightful place among the saviors of the world.
これが、“私の唯一の役目は「神」が私に与えた役目です。”と言って、それを本当に意味あるものにすることが可能な唯一の方法です。
This is the only way in which you can say and mean, "My only function is the one God gave me."
これが、心の安らぎを見出すことができる唯一の方法です。
This is the only way in which you can find peace of mind.

今日、そして、これから、より持続的な練習期間のために10分から15分を特別にとって、今日の新しい見方《私の唯一の役目は神が私に与えた役目です。》が本当に何を意味するのかを理解して受け容れるように努めてください。
Today, and for a number of days to follow, set aside ten to fifteen minutes for a more sustained practice period, in which you try to understand and accept what the idea for the day really means.
今日の新しい見方はあなたが知覚する困難のすべてからあなたが脱出できることを示しています。
Today's idea offers you escape from all your perceived difficulties.
それは、あなたが安らぎのドアのカギという、そこから自分自身を締め出すために閉じてしまったものをあなた自身が取り戻し、(再び)手にすることができます。
It places the key to the door of peace, which you have closed upon yourself, in your own hands.
それは、時(という自我の幻想)が始まって以来、あなたが行ってきたあらゆる探求に対する答えを与えてくれます。
It gives you the answer to all the searching you have done since time began.

もしできれば、長めの練習を毎日ほぼ同じ時間に設けるようにしてください。
Try, if possible, to undertake the daily extended practice periods at approximately the same time each day.
加えて、その時間を前もって決めるようにして、できるだけその時間を守るように努めてください。
Try, also, to determine this time in advance, and then adhere to it as closely as possible.
そうすることの目的は、その日にあなたが探求する(自我の)些末な目的や目標のために時間を割くだけでなく、「神」のためにも時間を割り当てるようにあなたの一日の流れを決めることにあります。
The purpose of this is to arrange your day so that you have set apart the time for God, as well as for all the trivial purposes and goals you will pursue.
これはあなたの意識が必要としている長期的な自己修練の訓練の一部であり、その結果、「聖霊」があなたと共有する目的のために、あなたの意識を首尾一貫して活用することができるようになるのです。
This is part of the long-range disciplinary training your mind needs, so that the Holy Spirit can use it consistently for the purpose He shares with you.

長めの練習は、今日の新しい見方《私の唯一の役目は、神が私に与えた役目です。》を復習することによって始めてください。
For the longer practice period, begin by reviewing the idea for the day.
それから、目を閉じて、今日の新しい見方を自分自身に向かってもう一度繰り返し、あなたの心を注意深く見つめて心を横切る思いがあれば何でもそれを捕まえます。
Then close your eyes, repeat the idea to yourself once again, and watch your mind carefully to catch whatever thoughts cross it.
最初は、今日の新しい見方《私の唯一の役目は、神が私に与えた役目です。》に関連した考えだけに集中しようとはしないでください。
At first, make no attempt to concentrate only on thoughts related to the idea for the day.
むしろ、心の中に生じる今日の新しい見方を妨害する(自我の)思いの一つ一つを暴くように努めてください。
Rather, try to uncover each thought that arises to interfere with it.
そのような(自我の)思いがやってくるときには、できるだけかかわりを持たず、気にかけることもせずに、一つ一つの思いに注意して、次の言葉を自分自身に言うことによって、それらを退けていきます。
Note each one as it comes to you, with as little involvement or concern as possible, dismissing each one by telling yourself:

        この思いは私の唯一の役目を私が受け容れることを妨害する自我の企みを反映しています。
         This thought reflects a goal that is preventing me from accepting my only function.

しばらくすると、妨害する思いは見つけにくくなるでしょう。
After a while, interfering thoughts will become harder to find.
しかし、1分ほどこれを継続して、それまでにあなたの注意を免れた取り留めもない(自我の)思いを2,3捕まえるようにしてみてください。ただ、そうするためにやたら一生懸命に、必要以上の努力はしないでください。
Try, however, to continue a minute or so longer, attempting to catch a few of the idle thoughts that escaped your attention before, but do not strain or make undue effort in doing this.
それから、自分自身に向かって次の言葉を言います。
Then tell yourself:

        このまっさらなキャンパスの上に私の真の役目が書かれますように        
        On this clean slate let my true function be written for me.

これとまったく同じ言葉を使う必要はありません。しかし、目的に関するあなたの(自我の)幻想を真実と取り換えたいというあなたの気持ちを表現するようにしてください。
You need not use these exact words, but try to get the sense of being willing to have your illusions of purpose be replaced by truth.


最後に、今日の新しい見方《私の唯一の役目は、神が私に与えた役目です。》をもう一度繰り返して言います。そして、練習の残りの時間を、あなたにとってこの役目がいかに重要であるか、この役目を受け容れてあなたの葛藤を最終的に解決することによってもたらされる安堵感、そして、救いとは正反対のあなた自身の(自我による)愚かな考えにもかかわらず、実際はどれほどあなたが救いを望んでいるかということに、焦点を絞ることに費やしてください。
Finally, repeat the idea for today once more, and devote the rest of the practice period to trying to focus on its importance to you, the relief its acceptance will bring you by resolving your conflicts once and for all, and the extent to which you really want salvation in spite of your own foolish ideas to the contrary.

短めの練習は、少なくとも一時間ごとに1回行われるべきですが、次の文章の形を使って今日の新しい見方を適用します。
In the shorter practice periods, which should be undertaken at least once an hour, use this form in applying today's idea:

        私の唯一の役目は神が私に与えたものです。
        My only function is the one God gave me.
        私は他のいかなる役目も望みません。
        I want no other and I have no other.

時々、これを練習しながら目を閉じてください。
そして、時々、目を開けた状態であなたの周囲を見回してください。
Sometimes close your eyes as you practice this, and sometimes keep them open and look about you.
あなたが今日の新しい見方を完全に受け容れるとき、あなたが今見ているものは100パーセントの変貌を遂げるでしょう。
It is what you see now that will be totally changed when you accept today's idea completely.

ゆるしの習慣

師の言葉より・・・。

奇跡とは習慣であり、いつも起こりつづけています。

わたしたちがそこにアクセスしているかどうか、気づいているかどうかは別ですが・・・。

いつも起こりつづけている奇跡に目を向け、ゆるしの機会として見るという習慣づけをレッスンを通して行っています。

あなたの目の前に起こる現実は、あなたの中にある原因をゆるしの機会として見せてもらっているのです。

たとえば、目の前の相手に攻撃を見たのなら、相手の中にある攻撃したい、攻撃されるという思いがあなたの中にもあります。

あなたの中のその攻撃性をゆるすことで、あなたは攻撃されることがなくなり、相手もあなたを攻撃していないことになります。

つまり、ゆるしを通して、自分も攻撃されず、相手の中の罪も消え、双方に奇跡が起こって分かち合えます。

このように、奇跡とはゆるしの習慣であり、だれかひとりだけのためにあるのではなくて分かちあうものなのです。

奇跡のコースのコースとは“道”であり、日々のゆるしの習慣によってその道ができていき、終わりはありません(どこかへ到達するわけではありません)。

おそらく、聖霊になっても、最後のひとりが完全に目覚めるまで、ゆるしを行いつづけると考えられます。

しかし、今のわたしたちと大きく違うのは、ゆるしが習慣になれば、ゆるしは辛いものではなくて喜びであり、習慣としてあたりまえのように無意識にやっているということです。

日々のレッスンを通して、慣れ親しんだ自我のパターンではなくてゆるしの実践に慣れるために、習慣づけを行っているのです。

Forgiveness Is The Key To Happiness.

Forgiveness Is The Key To Happiness.

だれかを責めることは、罪の意識を強めることになります。

まわりをゆるすことによって、自分を許すことができます。

ゆるしは、罪や怖れという幻想から完全にあなたを解放します。

ゆるしを選択することは、幸せになることを選択することなのです。

自分を含めたすべての人々への誤った見方を手放し、ゆるしを通して幸せになることを選択します。

そして、あなたとわたしを、本当のゆるしの光に照らします。

Lesson 64

私の役目を私に忘れさせないでください。
Let me not forget my function.

今日の新しい見方は、“私を(自我の)誘惑のなかへと迷いこませないでください”ということの、別な言い方にすぎません。
Today's idea is merely another way of saying "Let me not wander into temptation."
あなたが見ているこの(自我の)世界の目的は、ゆるしというあなたの役目をわかりにくくさせ、ゆるしというあなたの役目を忘れてもよいという正当化の理由をあなたに提供することにあります。
The purpose of the world you see is to obscure your function of forgiveness, and provide you with a justification for forgetting it.
それは身体という姿をまとうことによって「神」と「神の子」を見捨てたいという誘惑です。
It is the temptation to abandon God and His Son by taking on a physical appearance.
肉体の目が見るのはこれです。
It is this the body's eyes look upon.

肉体の目が見ているように見えるものは何であれ、(自我という幻想の)誘惑の一つの形以外の何ものでもありません。というのは、それが肉体そのものの目的だったからです。
Nothing the body's eyes seem to see can be anything but a form of temptation, since this was the purpose of the body itself.
しかし、「聖霊」はあなたが作ったすべての幻想について別な活用法をもっているということ、したがって、「聖霊」は幻想の中に別な目的を見てとるということを私たちは学びました
Yet we have learned that the Holy Spirit has another use for all the illusions you have made, and therefore He sees another purpose in them.
「聖霊」にとって、この世界はあなたがあなたの罪であると考えることに関して、あなた自身をゆるすことを学ぶための場所です。
To the Holy Spirit, the world is a place where you learn to forgive yourself what you think of as your sins.
このように知覚することにおいては、身体(という自我の幻想)の誘惑ではなく、スピリットによる救いの認識になります。
In this perception, the physical appearance of temptation becomes the spiritual recognition of salvation.

ここ何回かのレッスンを見直してみると、あなたのこの世界での役目はこの世界の光であることであり、それは「神」によってあなたに与えられた役目です。
To review our last few lessons, your function here is to be the light of the world, a function given you by God.
これを疑問視するようにとあなたを導くのはエゴの傲慢さだけであり、「神自身」によってあなたに課された役目にあなたは値しないと思い込ませ、そそのかすのはエゴの怖れに他なりません。
It is only the arrogance of the ego that leads you to question this, and only the fear of the ego that induces you to regard yourself as unworthy of the task assigned to you by God Himself.
この世界の救いはあなたのゆるしを待っています。なぜなら、あなたのゆるしを通して「神の子」はすべての(自我の)幻想から逃れ、かくして、すべての(自我の)誘惑から逃れるからです。
The world's salvation awaits your forgiveness, because through it does the Son of God escape from all illusions, and thus from all temptation.
「神の子」とはあなたです。
The Son of God is you.

「神」によって与えられた役目を果たすことによってのみ、あなたは幸せになれるでしょう。
Only by fulfilling the function given you by God will you be happy.
その理由は、あなたの役目は「幸せにならないなんて不可能」な手段を使うことによって幸せになることだからです。
That is because your function is to be happy by using the means by which happiness becomes inevitable.
それ以外に幸せになるための方法はありません。
There is no other way.
したがって、あなたがあなたの役目を果たす選択をするか、果たさない選択をするたびごとに、実際には、幸せになるか幸せにならないかの選択をしているのです。
Therefore, every time you choose whether or not to fulfill your function, you are really choosing whether or not to be happy.

今日はこのことを思い出すことにしましょう。
Let us remember this today.
朝に、そして、再び夜に、そして、一日中、このことを自分自身に思い出させることにしましょう。
Let us remind ourselves of it in the morning and again at night, and all through the day as well.
それらの決断は実際にはすべて非常に単純であるということを思い出すことによって、今日あなたが下すすべての決断に関して前もって心の準備をしてください。
Prepare yourself in advance for all the decisions you will make today by remembering they are all really very simple.
一つ一つの決断が幸せか不幸せのどちらかを導きます。
Each one will lead to happiness or unhappiness.
そのように単純な決断を下すことが実際に難しいということがあり得るでしょうか。
Can such a simple decision really be difficult to make?
決断の形によって騙されないでください。
Let not the form of the decision deceive you.
形の複雑さは中身の複雑さを暗示するものではありません。
Complexity of form does not imply complexity of content.
地上におけるいかなる決断もこの一つの単純な選択と異なる中身を持つことは不可能です。
It is impossible that any decision on earth can have a content different from just this one simple choice.
それは「聖霊」が見る唯一の選択です。
That is the only choice the Holy Spirit sees.
したがって、それが存在する唯一の選択です。
Therefore it is the only choice there is.

それでは、今日は以下の思いについて練習をすることにしましょう。
Today, then, let us practice with these thoughts:

        私に私の役目を忘れさせないでください。
        Let me not forget my function. 
        「神」の役目を私の(自我の企みの)それと取り替えさせないでください。
        Let me not try to substitute mine for God's.
        私にゆるさせてください。そして、幸せにしてください。
        Let me forgive and be happy.

今日は少なくとも1回、10分から15分を、目を閉じてこのことについて内省することに費やしてください。
At least once devote ten or fifteen minutes today to reflecting on this with closed eyes.
あなたにとって、そして、世界にとってあなたの役目がきわめて重要であることを思い出せば、関連した思いがやってきてあなたを助けてくれるでしょう。
Related thoughts will come to help you, if you remember the crucial importance of your function to you and to the world.

今日の新しい見方《私の役目を私に忘れさせないでください。》を一日中頻繁に適用する中で、これらの思いを復習することに数分を費やし、それから、他のことではなくこれらの思いについて考えることに数分を費やしてください。
In the frequent applications of today's idea throughout the day, devote several minutes to reviewing these thoughts, and then thinking about them and about nothing else.
これは特に最初は難しいでしょう。
というのは、それに必要な意識の訓練においてあなたはまだ熟達していないからです。
This will be difficult, at first particularly, since you are not proficient in the mind discipline that it requires.
集中しやすくするために、“私の役目を忘れさせないでください”という言葉をきわめて頻繁に繰り返す必要があるかもしれません。
You may need to repeat "Let me not forget my function" quite often to help you concentrate.

短めの練習には二つのやり方が必要です。
Two forms of shorter practice periods are required.
あるときには、目を閉じて練習を行い、使っている思いに集中するように努めてください。
At times, do the exercises with your eyes closed, trying to concentrate on the thoughts you are using.
あるときには、思いを復習した後に目を開けたままで、意図的に選択しようとせずにゆっくりと周囲を見まわしながら、自分自身に向かって次の言葉を言ってください。
At other times, keep your eyes open after reviewing the thoughts, and then look slowly and unselectively around you, telling yourself:

       
        これが私の役目が救う世界です。        This is the world it is my function to save.

Lesson 63

この世界の光が、私のゆるしを通してあらゆる心に安らぎをもたらします。
The light of the world brings peace to every mind through my forgiveness.

あらゆる心に安らぎをもたらす力を持っているあなたとはなんと神聖な存在なのでしょう。
How holy are you who have the power to bring peace to every mind!
このことがあなたを通してなされるための手段を認識することを学ぶことができるあなたは、なんと祝福されていることでしょう。
How blessed are you who can learn to recognize the means for letting this be done through you!
あなたにこれ以上の幸せをもたらしてくれる目的を持つことなど一体可能でしょうか。
What purpose could you have that would bring you greater happiness?

あなたはまさにそのような役目を持ったこの世界の光です。
You are indeed the light of the world with such a function.
「神の子」は自らの救いを求めてあなたに頼るのです。
The Son of God looks to you for his redemption.
彼に救いを与えるのはあなたです。というのは、救いはあなたのものだからです。
It is yours to give him, for it belongs to you.
その代わりに、(自我の)取るに足りない目的や意味のない願望を受け容れないでください。
さもないと、あなたはあなたの役目を忘れ、「神の子」を(自我の)地獄に残していくことになります。
Accept no trivial purpose or meaningless desire in its place, or you will forget your function and leave the Son of God in hell.
あなたにされているこの依頼は意味のない依頼ではありません。
This is no idle request that is being asked of you.
あなたが救いを与えることができるように、救いを受け容れることを依頼されているのです。
You are being asked to accept salvation that it may be yours to give.

この役目の重要性を認めて、今日、私たちは喜んでそれを何度も思い出すことにしましょう。
Recognizing the importance of this function, we will be happy to remember it very often today.
それを認めることによって一日を始め、それについての思いを自覚しながら一日を閉じます。
We will begin the day by acknowledging it, and close the day with the thought of it in our awareness.
そして、一日を通して次の言葉をできるだけ頻繁に繰り返します。
And throughout the day we will repeat this as often as we can:

        この世界の光は、私のゆるしを通してあらゆる心に安らぎをもたらします。
        The light of the world brings peace to every mind through my forgiveness.         
        私は世界を救うために「神」が指名した手段です。
        I am the means God has appointed for the salvation of the world.

目を閉じれば、これを考えるために費やすべき1分か2分の間に関連した思いがあなたの心により簡単にやってくるかもしれません。
If you close your eyes, you will probably find it easier to let the related thoughts come to you in the minute or two that you should devote to considering this.
しかし、そうしなければならないというわなけではありません。
Do not, however, wait for such an opportunity.
それよりも、今日の新しい見方を強めるためのどんな機会も見逃さないようにしましょう。
No chance should be lost for reinforcing today's idea.
「神の子」が救いを求めてあなたを頼りにしていることを思い出してください
Remember that God's Son looks to you for his salvation.
そして、他ならぬあなたの自身は「神の子」に他ならないのです。
And Who but your Self must be His Son?

怖れとゆるしの機会

師の言葉より・・・。

真の目で観るとは、自分のまわりで起こることすべてに対し、最適な導きが起こっているいるという確信をもって見れること。

そして、起こることすべてを自分の中にあるものの投影だと観察し、すべてをゆるしの機会(チャンス)に変えていけることです。

目に入るは因縁、耳に入るも因縁、助けるのは当然のこと。

見聞きするということは、自分の内側にある原因(様々な種)が外側に投影されたということであり、目の前の人を救うことは自分を救うことに他なりません。

この物事の見方とゆるしの習慣づけを、奇跡のコースを通じて、わたしたちは練習しています。

自我というのは、こうであってほしい、こんなミラクルはほしいけどあれはいらないなど、見たいものだけを見るので、多くの機会(チャンス)を逃します。

真に観るときには、怖れや執着など、自我の視点から見れば気づきたくないこともたくさん見なければいけないかもしれません。

でも、気づかなければ、その怖れから永遠に逃れることはできず、ゆるしの機会を逃してしまうのです。

あなたの自我はなにを怖れ、なにに執着し、なぜ自然の流れ(あなたの魂が輝いている状態)に乗れないのでしょうか・・・。

怖れに気づいたときに、その怖れにまだしがみついていたいと思えば持ちつづければいいでしょう。

もうこんな世界は見たくない、わたしはこんなものを見るために生まれてきたわけじゃないと思うなら、ゆるしを通して聖霊にゆだねればよいでしょう。

怖れ(自我のパターン)に気づいたときにどう行動したいかという選択はあなた次第です。

でも、まずは怖れ(自我のパターン)を見極めなければ、その選択の機会もないのです。

怖れ(自我)はあなたではありませんし、それは幻想ですので、怖がらなくても聖霊がそばであたたかく見守っていてくれるでしょう。

Forgiveness Is The Key To Happiness.

Forgiveness Is The Key To Happiness.

だれかを責めるたびに、自分自身の罪の意識を強めています。

まわりの人をゆるすことによって、自分自身をゆるすことができます。

過去にだれかが自分にしたこと、自分がだれかにしたことは問題ではありません。

ただ“ゆるす”こと。

ゆるすことで、罪悪感や怖れから完全に自由になれます。

自分自身を含めたすべての人々への誤った見方をすべて手放し、真のゆるしの光に照らすことを決意しましょう。

そうすれば、ひとつの心になるでしょう。

Lesson 62

ゆるしはこの世界の光である私の役目です。
Forgiveness is my function as the light of the world.

暗闇の世界を光のもとへと連れて行くのは、あなたのゆるしです。
It is your forgiveness that will bring the world of darkness to the light.    
光の中で見ているあなたのその光を、あなたに認めさせてくれるのは、あなたのゆるしです。
It is your forgiveness that lets you recognize the light in which you see.
ゆるしは、あなたがこの世界の光であることの証明です。
Forgiveness is the demonstration that you are the light of the world.
あなたのゆるしを通して、あなた自身についての真実があなたの記憶に戻ってきます。
Through your forgiveness does the truth about yourself return to your memory.
したがって、あなたのゆるしの中にあなたの救いがあります。
Therefore, in your forgiveness lies your salvation.

あなた自身についての(自我による)幻想とこの世界についての(自我による)幻想は一つのものです。
Illusions about yourself and the world are one.
それが、すべてのゆるしはあなた自身への贈り物である理由です。
That is why all forgiveness is a gift to yourself.
創造と「創造主」を攻撃することによってあなたの(真の)「アイデンティティー」を否定したあなたの(真の)目標は、あなたが誰であるかを発見することにあります。
Your goal is to find out who you are, having denied your Identity by attacking creation and its Creator.
今、あなたはどのようにしてその真実を発見するか、その方法を学びつつあります。
Now you are learning how to remember the truth.
というのは、この攻撃はゆるしによって取って代わられなければならないからです。その結果、(永遠の)生命の思いが(自我による)死の思い(という幻想)に取って代わることになります。
For this attack must be replaced by forgiveness, so that thoughts of life may replace thoughts of death.

あなたは、攻撃をするたびにあなた自身の弱さに呼びかけるのに対して、ゆるすたびごとにあなたの中にある*キリスト意識の強さに呼びかけるということを思い出してください。
Remember that in every attack you call upon your own weakness, while each time you forgive you call upon the strength of Christ in you.
そういうことであれば、ゆるしがあなたのために何をしてくれるかが分かり始めるのではないでしょうか。
Do you not then begin to understand what forgiveness will do for you?
ゆるしは、弱さ、ストレス、疲労といった感覚のすべてをあなたの意識から除去してくれるでしょう。
It will remove all sense of weakness, strain and fatigue from your mind.
ゆるしは怖れ、罪悪感、苦痛のすべてを取り去ってくれるでしょう。
It will take away all fear and guilt and pain.
ゆるしは、「神」が「神の子」に与えられた不死身性と力をあなたの意識に回復してくれるでしょう。
It will restore the invulnerability and power God gave His Son to your awareness.

*翻訳者註;ここでのキリスト意識とは、イエス・キリストという特定の個人の名称ことではなく、誰の中にもある神の一部としての神聖性を、キリスト意識と言っています

喜びをもって、今日の新しい見方を実践することによって今日という日を始め、そして閉じることにしましょう。そして、一日を通してできるだけ頻繁に今日の新しい見方を使うことにしましょう。
Let us be glad to begin and end this day by practicing today's idea, and to use it as frequently as possible throughout the day.
そうすることで、「神」があなたのために望んでいる幸せな一日となるのに役立つことでしょう。
It will help to make the day as happy for you as God wants you to be.
そして、あなたの周囲の人たち、あるいは、時空間において遠くにいるように思われる人たちがあなたとこの幸せを共有するのに役立つことでしょう。
And it will help those around you, as well as those who seem to be far away in space and time, to share this happiness with you.

できるだけ頻繁に、可能であれば目を閉じて、今日は次の言葉を自分自身に向けて言ってください。
As often as you can, closing your eyes if possible, say to yourself today:

        ゆるしはこの世界の光である私の役目です。
        Forgiveness is my function as the light of the world. 
        私は幸せになるためにこの役目を果たします。
        I would fulfill my function that I may be happy.

それから、1分か2分を費やして、あなたの役目について考え、それがあなたにもたらしてくれる幸せと解放について考えてください。
Then devote a minute or two to considering your function and the happiness and release it will bring you.
関連した思いが自由にあなたの心にやってくるのに任せてください
というのは、あなたのハートはこれらの言葉が分かり、あなたの意識の中にそれらの言葉が真実であるという自覚があるからです。
Let related thoughts come freely, for your heart will recognize these words, and in your mind is the awareness they are true.
あなたの注意力が散漫になったならば、今日の新しい見方《ゆるしはこの世界の光である私の役目です。》を繰り返し、次の言葉を付け加えてください。
Should your attention wander, repeat the idea and add:

        私は(真の)幸せそのものとして在りたいのでこのことを覚えているでしょう。
        I would remember this because I want to be happy.

Lesson61について

☆翻訳者より☆

レッスン61も深いレッスンです。

《私はこの世界の光です》と、自分が神の一部であり、神の子であり、神の神聖性を受け継いだものである、と受け入れることは謙虚さであるとレッスンは示しています。

逆に、自分を自我(=エゴ)という幻想と錯覚にとどまらせ、自分自身を自我で否定したり、自己嫌悪感に陥ったり、怖れ、不安、特別感のワナ、不足感(充分でない・足りないという感覚)、比較・競争の中にあることを自分自身の思いだと、自分自身なんだと、思い込むことは、謙虚さでは全くなく、むしろ傲慢なのだとレッスンは伝えています。

神の言葉から伝えられるメッセージがこれです。

何度も読み返し、深くそれを受けとるなら、きっといま目の前にあることの本当の意味と、自我による幻想が思い込ませた錯覚とを見極める力を与えられるかもしれません。

どうか、私たちがレッスン61を受け取り尽くせますように・・・。

そして、闇ではなく、光を見ることができますように・・・。

Lesson 61

私はこの世界の光です。
I am the light of the world.

「神の子」以外の誰がこの世界の光であり得るでしょうか。
Who is the light of the world except God's Son?
とすれば、これはあなた自身についての真実を単に述べたものにすぎません。
This, then, is merely a statement of the truth about yourself.
それはプライドの言葉、傲慢さの言葉、自己欺瞞の言葉とは正反対のものです。
It is the opposite of a statement of pride, of arrogance, or of self-deception.
それはあなたが(自我に基づき)作った自己概念を描写するものではありません。
It does not describe the self-concept you have made.
それはあなたが(自我によって)あなたの偶像(=自分自身をこんな人間だと決めつけ思い込んだ幻想)に賦与した特徴(=アイデンティティー)のいかなるものにも言及していません。
It does not refer to any of the characteristics with which you have endowed your idols.
あなたは「神」によって創造された(という真実)ということあなたに示しています。
It refers to you as you were created by God.
それはただ真実を述べています。
It simply states the truth.

自我にとっては、今日の新しい見方《私はこの世界の光です。》は自己賞賛そのものと感じられるでしょう。
To the ego, today's idea is the epitome of self-glorification.
 しかし、自我(=エゴ)には謙虚さをわかっていないので、謙虚であるということは自己卑下(=自分を低くおとしめることだと)と勘違いしています。
But the ego does not understand humility, mistaking it for self-debasement.
(真実の)謙虚さとは、救いにおけるあなたの役割を受け容れることから成り立っていて、それ以外は引き受けないことにあります。
Humility consists of accepting your role in salvation and in taking no other.
もしも神があなたに「あなたの役割とはこの世界の光になること」とを望んだとすれば、(それに対して)「自分がこの世界の光となるなんてあり得ない」ということは謙虚さなんかではありません。
It is not humility to insist you cannot be the light of the world if that is the function God assigned to you.
(神があなたに望んだ)この役割が、あなたの役割ではあるはずがないと言うのは、(まさに)傲慢に他ならず、傲慢は常に自我(=エゴ)に属するものです。
It is only arrogance that would assert this function cannot be for you, and arrogance is always of the ego.

真の謙虚さはあなたが今日の新しい見方《私はこの世界の光です。》を受け容れることを必要とします。なぜなら、それが真実であるとあなたに告げているのは「神の声」なのですから。
True humility requires that you accept today's idea because it is God's Voice which tells you it is true.
これは地上におけるあなたの役割を受け容れる最初の一歩です。
This is a beginning step in accepting your real function on earth.
それは救いにおいてあなたにふさわしいところにとどまることに向かう大きな一歩です。
It is a giant stride toward taking your rightful place in salvation.
それは、あなた自身が救われる権利を積極的な受け入れることであり、他の人たちを救うためにあなたに与えられている力を承認することです。
It is a positive assertion of your right to be saved, and an acknowledgment of the power that is given you to save others.

今日はこの新しい見方《私はこの世界の光です。》についてできるだけ頻繁に考えてください。
You will want to think about this idea as often as possible today.
これはすべての(自我に基づいた見方や思いという)幻想に対する完璧な答えであり、したがって、すべての(あなたを自我の錯覚へと自我が勘違いさせようとする)誘惑に対する完璧な答えです。
It is the perfect answer to all illusions, and therefore to all temptation.
これはあなたがあなた自身について作ったイメージのすべてを真実のところまで持っていき、あなたが安らぎの中で、重荷をおろして身軽になって、目的を確信して出発する助けをしてくれます。
It brings all the images you have made about yourself to the truth, and helps you depart in peace, unburdened and certain of your purpose.

今日は練習時間をできるだけ多くとるべきですが、一つの練習は1,2分を超すべきではありません。
As many practice periods as possible should be undertaken today, although each one need not exceed a minute or two.
練習は次の言葉をあなた自身に向かって言うことによって開始します。
They should begin with telling yourself:

       私はこの世界の光です。それが私のたったひとつの役割です。
       I am the light of the world. That is my only function.
       そのために、私がここにいます。

       That is why I am here.

それから、これらの言葉について少しの間、考えてください。
状況が許せば目を閉じて行うことが望ましいでしょう。
Then think about these statements for a short while, preferably with your eyes closed if the situation permits.
2,3の関連した考えが心に浮かぶのに任せ、意識が中心的な考えから離れていくような場合には、今日の新しい見方《私はこの世界の光です。》を自分自身に向かって繰り返してください。
Let a few related thoughts come to you, and repeat the idea to yourself if your mind wanders away from the central thought.

必ず一日の始めと終わりには練習時間をとるようにします。
Be sure both to begin and end the day with a practice period.
そうすることによって、あなた自身についての真実を認めて目をさまし、一日を通じてその思いを強め、この世界でのあなたの役割とあなたがここにいる唯一の目的を再確認して眠りに就くことができます。
Thus you will awaken with an acknowledgment of the truth about yourself, reinforce it throughout the day, and turn to sleep as you reaffirm your function and your only purpose here.
これらの二つの練習時間が有益であると感じ、他のレッスンより長めにしたければそうしてもかまいません。
These two practice periods may be longer than the rest, if you find them helpful and want to extend them.

今日の新しい見方《私はこの世界の光です。》は、あなたが何であるか、そして、あなたの目的が何であるかについての自我(=エゴ)の矮小な見解をはるかに超越したものです。
Today's idea goes far beyond the ego's petty views of what you are and what your purpose is.
救いをもたらすものとして、これは明らかに必要です。
As a bringer of salvation, this is obviously necessary.
このレッスンはこれから数週間私たちがとることになる数多くの大きなステップの最初の一歩です。
This is the first of a number of giant steps we will take in the next few weeks.
今日は、これらの前進のためのしっかりとした土台を築き始るように努めてください。
Try today to begin to build a firm foundation for these advances.
あなたはこの世界の光なのです。
You are the light of the world.
「神」はあなたのもとに、「神の子」の救いのための「神」の計画を築いたのです。
God has built His plan for the salvation of His Son on you.

変化

師の言葉より・・・。

奇跡のコースには、あなたの人生を根本的に変えうる要素が含まれています。

でも、その過程においては、受けとり尽くせているのかわからない、自分が本当に変化しているのかわからない、自分はどこに向かっているのだろう・・・と不安になることもあるかもしれません。

人は、自分が変化できていると思っているときには変化できておらず、変化がわからないと悩みながらも歩みつづけるときには少しずつ変化しているものです。

自分で自分の成長はわかりませんが、このコースをやっているあなたは必ず変わりつつあります。

自然界を見てみましょう。

たとえば、DNAの構造はらせん状になっていますが、スピリチュアル的な成長も、このらせんの形とまったく同じで、一見上がったように見えてはまた下がったり、停滞したり。

でも、進んでいないように見えて、らせん状を辿っていけば、必ずちょっとずつちょっとずつ上がっていっています。

また、「三寒四温」という言葉がありますが、冬から春になるときも、暖かくなったと思うとまた寒くなりと、少しずつ変化していきます。

このように、自然界では寄せては返して、少しずつ少しずつ変化していくものなのです。

わたしたち人間の変化も同じなのです。

ただ、わたしたちの自我は、グレー色というのを受け入れにくく、白か黒かはっきりつけたがるという性質を持っており、目に見えて大きな変化がわからないと焦ったり苛立ったりするのです。

わたしたちがすべきことは光に向かって手を伸ばしつづけることですが、その過程においては一直線に進んでいくわけでなく、変化はわからなくても必ず光に向かって進みつづけているのです。

寄せては返してちょっとずつ変化するという自然界の法則を頭の片隅に入れておくと、レッスンに対しても日常においても、できないことを批判したりジャッジメントをくださなくなるかもしれません。

いつ花が咲くかはわかりませんが、あなたはすでに種はまいてあるのです。

あとは、あなたができることは、水や肥料を適度にやり、種を掘り返さないように待つだけなのです。

そして、あなた自身がいかに自分はできないし落ちこぼれだと自分自身に対してジャッジメントをくだしたとしても、神や聖霊はあなたを評価・批判することは決してなく、ただ大きな天意の中で、いつまでもあなたを待っているだけなのです。

Lesson61以降について

☆翻訳者より☆

レッスン60が終わり、あなたがレッスンを始めてから、ちょうど2ヵ月という時が経ちました。

時の経つのは本当に早いものです。

この2ヵ月はいかがでしたでしょうか?

レッスンを始める前の2ヵ月前の自分はどんな状態で、どんな風に日々を過ごしていたでしょうか?

レッスンを2ヵ月なんとかやってきた今の自分は、2ヵ月前と比較して、例えばささいな変化であっても何らかの変化が訪れていることに気づくかもしれません。(外的環境であれ、内的気分であれ、)

何らかの変化をすでに感じている方もいれば、なんかよくわからないとか、とりあえずレッスンをこなしているという方もいれば、レッスンを読むだけで練習そのものはやれていないままになってしまってる方もひょっとしたらいるかもしれません。

私たちは、ともすればいたずらに毎日を過ごして、3ヶ月や半年や一年、ただ時間だけが過ぎていくという日々も過ごすことも出来ます。

けれど、あなたは、2ヶ月間、毎日毎日一つのことを続けることが出来たのです。

それも、神や聖霊の導きを毎日受けて・・・。

なので必ず2ヵ月のレッスンの間で変化は確実に起こっています。

とりあえず、毎日のレッスンに言われる通り、その時間と回数をちゃんとやっていれば、確実に変化は起こっています。

もし仮に、何も変化が訪れていないと感じるなら、現れている変化に気がつけていないか、もしくはレッスンの取り組み方を少し見直してみるといいかもしれません。

さて、レッスン61ですが、これまでのレッスンから、また一つ次元が上がります。

私がおすすめしたいのは、レッスン60を機に、ゲイリー・レナード著 「神の使者」をもう一度読み返してみてくださいということです。

あらためて読み返すと、これまでの60のレッスンが何だったのか、また、レッスン61以降の個々のレッスンの意味も理解のレベルがずっと上がるかと思います。

逆に言うと、レッスン61以降は「神の使者」を何回も読み返している人と読んでいない人は同じようにレッスンをしていても歴然とした差が出てきます。

神の使者では、「宇宙は本当はない」だとか「時間は本当はない」だとか「パラレルワールド」だとか、訳のわからない意味もなんだかわからないという内容も出てきます

読んでみたけど、自我の視点で「正しい(自我がわかると言ってる)」だの「間違ってる(自我がわからないと言ってる)」だのと自我の頭で「神の使者」を理解しようとしたり、「どこそこが矛盾している」「理屈に合わない」「つまらない」などとやってしまうと失敗します。

なぜなら、レッスンで繰り返されてきた通り、自我は偏った目でしか世界も自分も本当の現実も見れません。

レッスンは自我を意味のないものとして、自我で判断するのを手放し、全て聖霊の導きを受け入れていくという練習です。

自我が正しい判断ができるなら、その自我で誰もが幸せになっているはずです。けれど、現実はそうではありません。

レッスンで繰り返し強調されてきたのは、自我は過去からの狭い枠組で「怖れ」「不安」「充分でない」「完全でない」「(自我の思い描いた)思い通りでない」を目の前にただ投影するという癖しかありません。

「神の使者」でよくわからないなぁという部分があっても、自我であれこれ評価しようとするのではなく、(まだ真実を観るという力はないからわからないこともあるという前提で)「わからないなりに」それでも読み進めていくのがコツです。

しつこいようですが、「神の使者」を「わからないなり」に何回も読み返した人とそうでない人とは、毎日同じレッスンをしていてもレッスンの理解度や「レッスンから受け取れる恩恵」が天と地ほど違ってしまいます。

そしてまだ「神の使者」を買ったけど最後まで読了さえしていないという方は、そのままだとレッスンそのものが理解できずにレッスンから受け取れないまま終わってしまいますので、是非この機会に読み終えてしまってください。

Lesson 60

次の見方が今日の復習のための見方です。
These ideas are for today's review:

(46)
神は愛そのものです。その(神の)愛の中で私はゆるします。
God is the Love in which I forgive.

「神」は咎めたことがないがゆえにゆるすことはしません。
God does not forgive because He has never condemned.
咎めることのないものは咎めることはできません。
そして、自らの罪のなさを受け容れたものにはゆるすべきものは何も見えません。
The blameless cannot blame, and those who have accepted their innocence see nothing to forgive.
しかし、ゆるしは私が私の罪のなさを認めるための手段です。
Yet forgiveness is the means by which I will recognize my innocence.
ゆるしは地上における「神の愛」の反映です。
It is the reflection of God's Love on earth.
ゆるしは「天国」に十分私を近づけてくれ、「神の愛」が私のところまで手を伸ばして「神」のところまで引き上げてくれます。
It will bring me near enough to Heaven that the Love of God can reach down to me and raise me up to Him.


(47)
神は私が信頼する強さです。
God is the strength in which I trust.

私がゆるすのは私自身の強さを通してではありません。
It is not my own strength through which I forgive.
私の中にある「神の強さ」を通してゆるします。そのことを私はゆるすときに思い出します。
It is through the strength of God in me, which I am remembering as I forgive.
見え始めるにつれて、私は地上における「神」の反映を認めるようになります。
As I begin to see, I recognize His reflection on earth.
私は「神」の強さが私の中でうごめくのを感じるがゆえに、すべてのものをゆるします。
I forgive all things because I feel the stirring of His strength in me.
そして、私は愛を忘れる選択をしたけれど、私を忘れてはいない愛を思い出し始めます。
And I begin to remember the Love I chose to forget, but which has not forgotten me.


(48)
恐れるべきものは何もありません。
There is nothing to fear.

世界を私が見ることができるようになったら、世界は私にとってなんと安全な場所に見えることでしょう。
How safe the world will look to me when I can see it!
それは私が今見ていると想像しているものとは似ても似つかないものでしょう。
It will not look anything like what I imagine I see now.
私が見るすべての人、すべてのものが私に身を寄せて祝福してくれることでしょう。
Everyone and everything I see will lean toward me to bless me.
私はすべての人の中に私の最愛の「友」を見るでしょう。
I will recognize in everyone my dearest Friend.
私がゆるした世界の中に、そして、私をゆるしてくれた世界の中に、恐れるべきものなどあり得ないのです。
What could there be to fear in a world that I have forgiven, and that has forgiven me?


(49)
神の声は一日中私に語りかけます。
God's Voice speaks to me all through the day.

「神の声」が、私を救うようにと私のゆるしの思いに呼びかけることをやめる瞬間は一瞬もありません。
There is not a moment in which God's Voice ceases to call on my forgiveness to save me.
「神の声」が私の思いに方向性を与え、私の行動を導き、私の歩みを先導することに失敗する瞬間は一瞬もありません。
There is not a moment in which His Voice fails to direct my thoughts, guide my actions and lead my feet.
私は真実に向かって着実に歩き続けています。
I am walking steadily on toward truth.
真実以外に私が行くことができる場所はありません。
なぜなら、「神の声」こそ「神の子」に与えられた唯一の「声」であり、唯一の「ガイド」だからです。
There is nowhere else I can go, because God's Voice is the only Voice and the only Guide that has been given to His Son.


(50)
私は神の愛によって支えられています。
I am sustained by the Love of God.

「神の声」に耳を傾けるとき、私は「神の愛」によって支えられます。
As I listen to God's Voice, I am sustained by His Love.
私が目を開けるとき、私が見ることができるようにと「神の愛」が世界を明るく照らしてくれます。
As I open my eyes, His Love lights up the world for me to see.
私がゆるすとき、「神の愛」が「神の子」は無罪であることを私に思い出させてくれます。
As I forgive, His Love reminds me that His Son is sinless.
そして、「神」が私にくれたヴィジョンでこの世界を見るとき、私は「神の子」であることを思い出します。
And as I look upon the world with the vision He has given me, I remember that I am His Son.

Lesson 59

次の見方が今日の復習のための見方です。
The following ideas are for review today:

(41)
神は私がどこに行こうとも私と共に在ります。
God goes with me wherever I go.

「神」がいかなる時も常に私と共に在るのに、私が一人であるということがあり得るでしょうか。
How can I be alone when God always goes with me?
完璧な確実性が「神」の中にあるというのに、いったいどうして私が自分自身について疑いを抱き、不安になったりすることがあり得るでしょうか。
How can I be doubtful and unsure of myself when perfect certainty abides in Him?
「神」が絶対的な安らぎの中で私の中に休息しているというのに、私が何かによって心をかき乱されることなどあり得るでしょうか。
How can I be disturbed by anything when He rests in me in absolute peace?
愛と喜びが「神」を通じて私を取り囲んでいるというのに、いったいどうして苦しむことができるでしょうか。
How can I suffer when love and joy surround me through Him?
私は、自分自身についての(自我が作った)幻想を大切にすることのないようにしたいと思います。
Let me not cherish illusions about myself.
私が行くところであればどこにでも「神」が在るので、完璧(な内なる安らぎ)があります。
I am perfect because God goes with me wherever I go.


(42)
神は私の強さです。ヴィジョンは神の贈り物です。
God is my strength. Vision is His gift.

今日は、見るために私自身の(自我から来る肉体の)目に頼らせないでください。
Let me not look to my own eyes to see today.
『私が』見ているという哀れな(自我の)幻想を、「神」によって与えられているヴィジョンと交換する気持ちを私に持たせてください。
Let me be willing to exchange my pitiful illusion of seeing for the vision that is given by God.
「聖霊」のヴィジョンが「神」の贈り物であり、「神」はそれを私に与えてくれたのです。
Christ's vision is His gift, and He has given it to me.
今日という日が永遠を私が理解する助けとなるように、今日はこの贈り物に助けを求めさせてください。
Let me call upon this gift today, so that this day may help me to understand eternity.

(43)
神は私の源です。私は神から離れては見ることはできません。
God is my Source. I cannot see apart from Him.

「神」が私に観てほしいと望んでいることを私は観ることができます。
I can see what God wants me to see.
私にはそれ以外のものは何も見ることはできません。
I cannot see anything else.
「神の意志」でないところには(自我の)幻想が横たわっているだけです。
Beyond His Will lie only illusions.
私が「神」から離れて見ることができると思うときに私が選択するのはこれらの(自我の)幻想です。
It is these I choose when I think I can see apart from Him.
私が(自我の象徴である)肉体の目を通じて見ようとするときに選択するのはこれらの(自我の)幻想です。
It is these I choose when I try to see through the body's eyes.
しかし、「聖霊」のヴィジョンがそれらの(自我の)幻想に代わるものとして私に与えられています。
Yet the vision of Christ has been given me to replace them.
このヴィジョンを通じて私は観るという選択をします。
It is through this vision that I choose to see.


(44)
神は光であり、その光の中で私は見ます。
God is the light in which I see.

私は(自我の)暗闇の中では観ることはできません。
I cannot see in darkness.
「神」が唯一の光です。
God is the only light.
したがって、私が真に観ることができるとすれば、「神」を通して観なければなりません。
Therefore, if I am to see, it must be through Him.
私は見るとはどのようなことであるかを定義しようとしてきましたが、間違っていました。
I have tried to define what seeing is, and I have been wrong.
今、「神」は光であり、その光の中で私は観るという理解を私は与えられました。
Now it is given me to understand that God is the light in which I see.
私にヴィジョンを歓迎させてください。
そうすれば、ヴィジョンは私に幸せな世界を観せてくれるでしょう。
Let me welcome vision and the happy world it will show me.


(45)
神は意識そのものであり、その意識で私は考えます。
God is the Mind with which I think.

私には「神」と分かち合っていない思いは(本来)ありません。
I have no thoughts I do not share with God.
私には「神」を離れた思いは(本質的に)ありません。
なぜなら、私には「神の意識」を離れた意識はないからです。
I have no thoughts apart from Him, because I have no mind apart from His.
「神の意識」の一部としての私の思いは「神の思い」であり、「神の思い」は私の思いです。
As part of His Mind, my thoughts are His and His Thoughts are mine.

2013年9月27日金曜日

Lesson 58

次の見方が今日の復習のための見方です。
These ideas are for review today:

(36)
私の神聖性は私が見るもののすべてを包み込みます。
My holiness envelops everything I see.

私の神聖性から実在の世界についての知覚がやってきます。
From my holiness does the perception of the real world come.
ゆるしたために、私はもはや自分自身を(その存在そのものに)罪悪感を感じなければならない存在であるとは見なしません。
Having forgiven, I no longer see myself as guilty.
私は、私についての真実である罪のなさを受け容れることができます。
I can accept the innocence that is the truth about me.
理解する目を通して見るとき、この世界の神聖性が私の見るすべてです。
というのは、私には自分自身について私が抱いている思いしか思い描くことができないからです。
Seen through understanding eyes, the holiness of the world is all I see, for I can picture only the thoughts I hold about myself.


(37)
私の神聖性はこの世界を祝福します。
My holiness blesses the world.

私の神聖性についての知覚は私だけを祝福するのではありません。
The perception of my holiness does not bless me alone.
神聖性の光の中で私が見るすべての人、すべてのものが、神聖性が私にもたらしてくれる喜びを共有します。
Everyone and everything I see in its light shares in the joy it brings to me.
この喜びから離れているものは何もありません。
なぜなら、私の神聖性を共有しないものはないからです。
There is nothing that is apart from this joy, because there is nothing that does not share my holiness.
私が私の神聖性を認めるとき、この世界の神聖性もまた輝き出て誰もがそれを見ることができるのです。
As I recognize my holiness, so does the holiness of the world shine forth for everyone to see.


(38)
私の神聖性にできないことは何もありません。
There is nothing my holiness cannot do.

私の神聖性はその癒しの力において無制限です。
なぜなら、それは救いの力において無制限であるからです。
My holiness is unlimited in its power to heal, because it is unlimited in its power to save.
救いとは何から救うかと言えば(自我に基づいた見方という)幻想以外の何があるでしょうか。
What is there to be saved from except illusions?
そして、(自我に基づいた見方という)幻想と言えば自分自身についての誤った考え以外の何が(自我に基づいた見方という)幻想でしょうか。
And what are all illusions except false ideas about myself?
私の神聖性は私についての真実を主張することによってそうしたもののすべてを解除します。
My holiness undoes them all by asserting the truth about me.
私の神聖性の前にあっては、私はそれを「神自身」と共有しているのですが、すべての(自我に基づいた見方が思い込んだ)偶像は姿を消します。
In the presence of my holiness, which I share with God Himself, all idols vanish.


(39)
私の神聖性は私の救いです。
My holiness is my salvation.

私の神聖性はすべての罪悪感から私を救ってくれるために、私の神聖性を認めることは私の救いを認めることです。
Since my holiness saves me from all guilt, recognizing my holiness is recognizing my salvation.
それはまた、この世界の救いを認めることでもあります。
It is also recognizing the salvation of the world.
いったん私が私の神聖性を受け容れれば、いかなるものも私を恐れさせることはできません。
Once I have accepted my holiness, nothing can make me afraid.
そして、私は恐れていないがゆえに、だれもが私の理解を共有するに違いありません。
そのことは、私とこの世界に対する「神」の贈り物です。
And because I am unafraid, everyone must share in my understanding, which is the gift of God to me and to the world.


(40)
私は「神の子」として祝福されています。
I am blessed as a Son of God.

ここにすべての善なるもの、そして、善なるものだけに対する私の権利の主張があります。
Herein lies my claim to all good and only good.
私は「神の子」として祝福されています。
I am blessed as a Son of God.
すべての善なるものは私のものです。なぜなら、「神」がそれらを私のために意図されたからです。
All good things are mine, because God intended them for me.
私はその存在性のゆえに、何かを失ったり奪われたり苦痛を被ることはあり得ません。
I cannot suffer any loss or deprivation or pain because of Who I am.
私の「父(である神)」は私を支えてくれ、私を守ってくれ、あらゆる事柄において私に方向を示してくれます
My Father supports me, protects me, and directs me in all things.
私に対する「神」の心遣いは無限であり、永遠に私と共にあります。
His care for me is infinite, and is with me forever.
私は「神の子」として永遠に祝福されています。
I am eternally blessed as His Son.

大いなる流れ

師の言葉より・・・。

あなたにとっても、あなたのまわりの人々や物にとっても、すべてにとって最善のことが起こることが、大いなる流れにそっている(神の意にかなっている)ことです。

大いなる流れはいついかなるときも存在していますが、この大いなる流れ(神の意志)に乗ると、結果として、あなた自身も魂本来の輝きを放ち、その光でまわりの人々も照らされ、すべてが調和する状態となります。

たとえば、自然界の山々を想像してみてください。

木は一本だけで立っていたとしたら、大雨のときにはすぐに流されてしまうでしょうが、他の木々と根が絡み合って共存している状態なら、流されることも少ないでしょう。

このように、お互いがお互いの助けになって、どの木にとっても最善の状態ができています。

また、山々の木々は、背の高い木もあれば低い木もありますが、一本一本の特徴がすべてが調和してひとつの山ができています。

わたしたちも同じなのです。

では、奇跡のコースでは一体なにをやろうとしているのでしょうか。

毎日のレッスンの中で、わたしたちはレッスンをやるたびにこの大いなる流れ(神の意志)に実はアクセスしているのです。

毎日毎日、毎回毎回、大いなる流れにアクセスする練習を通して目覚めの筋肉をつけ、目覚めを習慣づけようとしています。

自我というのは、みんなが幸せであるこの大いなる流れをまったく考えずに、こうであってほしいという自我の思いや願いを抱いていて、わたしたちはその自我のパターンで思考する習慣に慣れています。

その自我で思考する習慣を、大いなる流れで思考する習慣に変えようとしているのが奇跡のコースなのです。

神のまなざし

師の言葉より・・・。

神がわたしたちを見守るまなざしは本当にあたたかいものです。

神は、全体がよくなることしか考えていませんし、わたしたちに与えたくて仕方がありません。

でも、わたしたちは自我の小さな小さな視点から、勝手に神を定義づけたり、神が与えているものを拒絶したりします。

たとえば、地震ですが、ここにも神は一切関与しておらず、これは人間のストレスが高まって生まれた電磁波によるものであり、人間が作りだしたものです。

神は、そんなわたしたちを、おもちゃを壊してしまった子どもに対する親のように見守りながら、何度も何度も還るチャンスを与えつづけています。

神は、特別性や上下もつくらず、わたしたちを等しく愛し、遊びにでかけてしまったわたしたちの帰りをただただ待っていてくれているのです。

わたしたちは、目の前に起こる現実に対してよい悪いとジャッジメントし、神が罰を与えるとか、よい行いをしたらよいことがあるなどと勝手に決めつけることが多々ありますが、神はもっともっと大きな視点から、わたしたちが本当の愛を思いだせるよう見守っています。

いつも神の愛は片思いなのです・・・。

Lesson 57

今日はこれらの見方の復習をしましょう。
Today let us review these ideas:

(31)
私は、私が見ている世界の犠牲者ではありません。
I am not the victim of the world I see.

私がそうすることを選択さえすれば完全に解除できる(自我の幻想が作った)世界の犠牲者であることがいったいあり得るでしょうか。
How can I be the victim of a world that can be completely undone if I so choose?
私の(自我の)鎖は緩められています。
My chains are loosened.
ただそのように願うだけで(その自我の)鎖を外すことができます。
I can drop them off merely by desiring to do so.
牢獄のドアは開いています。
The prison door is open.
そのドアから歩いて出るだけで(自我の)牢獄を後にすることができます。
I can leave simply by walking out.
いかなるものも私をこの世界に拘束しているわけではありません。
Nothing holds me in this world.
ここにとどまりたいという私の願望だけが私を囚人にしているのです。
Only my wish to stay keeps me a prisoner.
私は狂気の願望を放棄して、ついに太陽の光の中へと歩いていきたいと思います。
I would give up my insane wishes and walk into the sunlight at last.


(32)
私は、私が見ているこの世界を作り上げました。
I have invented the world I see.

私は私自身をその中に見ている牢獄を作り上げました。
I made up the prison in which I see myself.
私がする必要のあることはこれを認識するだけです。そうすれば、私は自由の身です。
All I need do is recognize this and I am free.
私は自分自身をだまして「神の子」を牢獄に入れることが可能であると信じこませたのでした。
I have deluded myself into believing it is possible to imprison the Son of God.
私はこの信念において苦々しくも裏切られましたが、今ではもうその信念を望みません。
I was bitterly mistaken in this belief, which I no longer want.
「神の子」は永遠に自由でなければなりません。
The Son of God must be forever free.
「神の子」は「神」が創造されたものとしてあり、私が作ろうとするものではありません。
He is as God created him, and not what I would make of him.
「神の子」は「神」が望まれる場所にいるのであって、私が私を囚人として拘束しておこうと思った場所にいるのではありません。
He is where God would have him be, and not where I thought to hold him prisoner.


(33)
この世界を見るための別な方法があります。
There is another way of looking at the world.

この世界の(本当の)目的は私がこの世界に勝手に決めつけたものではないので、この世界を見るための別の方法があるに違いありません。
Since the purpose of the world is not the one I ascribed to it, there must be another way of looking at it.
私はすべてのものを逆さに見ており、私の思いは真実の正反対です。
I see everything upside down, and my thoughts are the opposite of truth.
私はこの世界を「神の子」の牢獄として見ています。
I see the world as a prison for God's Son.
したがって、この世界は実は「神の子」が解放され得る場所であるに違いないということになります。
It must be, then, that the world is really a place where he can be set free.
私はこの世界をありのままに観たいと思います。
そして、この世界を「神の子」が自らの自由を発見する場所であると見なしたいと思います。
I would look upon the world as it is, and see it as a place where the Son of God finds his freedom.


(34)
私はこれを見る代わりに安らぎを見ることができます。
I could see peace instead of this.

この世界を自由の場所であると見るとき、この世界が従うようにと私が作り上げた規則の代わりに、この世界は「神」の法則を反映していることが分かります。
When I see the world as a place of freedom, I realize that it reflects the laws of God instead of the rules I made up for it to obey.
私は、攻撃(や戦い)ではなく安らぎがその中に住んでいることを理解するでしょう。
I will understand that peace, not war, abides in it.
そして、安らぎはまたこの場所を私と共有するすべての人たちのハートの中にも住んでいることを知覚するでしょう。
And I will perceive that peace also abides in the hearts of all who share this place with me.


(35)
私の意識は「神の意識」の一部です。私はとても神聖です。
My mind is part of God's. I am very holy.

この世界の安らぎを私の兄弟たちと共有するとき、私はこの安らぎが私自身の深い内面からやってくることを理解し始めます。
As I share the peace of the world with my brothers, I begin to understand that this peace comes from deep within myself.
私が見る世界が私のゆるしの光を帯びて、私に向けてゆるしの光を輝かせて返してくれます。
The world I look upon has taken on the light of my forgiveness, and shines forgiveness back at me.
私はこの光の中に、私自身についての私の幻想が隠し続けてきたものを見始めます。
In this light I begin to see what my illusions about myself kept hidden.
私は私自身を含めた生きとし生けるもののすべての神聖性と、それらと私の一体性を理解し始めます。
I begin to understand the holiness of all living things, including myself, and their oneness with me.

Lesson 56

今日の復習では以下の見方に取り組みます。
Our review for today covers the following:


(26)
私の攻撃の思いは、私の不死身性を攻撃しています。
My attack thoughts are attacking my invulnerability.

自分自身が常に攻撃にさらされていると見るとき、自分が誰であるかを知ることがいったいできるでしょうか。
How can I know who I am when I see myself as under constant attack?
苦痛、病気、喪失、老化、死が私を脅かしているように思われます。
Pain, illness, loss, age and death seem to threaten me.
私の希望や願望や計画のすべてが、私にはコントロールできない世界に翻弄されているように見えます。
All my hopes and wishes and plans appear to be at the mercy of a world I cannot control.
しかし、完璧な安全と完全な実現が私が引き継いだものなのです。
Yet perfect security and complete fulfillment are my inheritance.
私は私の引き継いだものを、『私が見ている(自我に基づく)世界』に置き換え放棄しようとしました。
I have tried to give my inheritance away in exchange for the world I see.
しかし、「神」が私に引き継いだもの安全に守っていたのでした。
But God has kept my inheritance safe for me.
私自身の(神の)実在的な思いが、私の引き継いだものが何であるかを私に教えてくれるでしょう。
My own real thoughts will teach me what it is.


(27)
他の何よりも、私は見ることを望みます。
Above all else I want to see.

私が見ているものは、私が何であると私が考えていることを反映していることを認識するとき、ヴィジョンこそ私が最も必要としているものであることに私は気づきます。
Recognizing that what I see reflects what I think I am, I realize that vision is my greatest need.
私が見ている世界は、私が作ったセルフイメージの『怖れ』に満ちた性質を証言しています。
The world I see attests to the fearful nature of the self-image I have made.
私が誰であるかを思い出したいならば、自分自身についてのこのイメージを手放すことが不可欠です。
If I would remember who I am, it is essential that I let this image of myself go.
それが真実にとって代わられるとき、ヴィジョンが確実に私に与えられるでしょう。
As it is replaced by truth, vision will surely be given me.
そして、このヴィジョンで、私はこの世界と自分自身を慈悲の心と愛をもって見るでしょう。
And with this vision, I will look upon the world and on myself with charity and love.


(28)
他の何よりも、私はものごとを違った目で観ることを望みます。
Above all else I want to see differently.

私が(自我に基づいて)見ている世界は、私の『怖れ』に満ちたセルフイメージを固定し、その継続性を揺るぎなきものにしようとします。
The world I see holds my fearful self-image in place, and guarantees its continuance.
私が今この世界を(自我から)見ているようにこの世界を(自我の幻想のまま)見ている間は、真実は私の意識に入ることはできません。
While I see the world as I see it now, truth cannot enter my awareness.
私は、この世界の後ろにあるドアの向こうを見て「神の愛」を反映する世界を見るために、そのドアを私のために開かせます。
I would let the door behind this world be opened for me, that I may look past it to the world that reflects the Love of God.


(29)
「神」は私が見るすべてのものの中に在ります。
God is in everything I see.

私(の本質とは全く違う単なる過去の記憶のパターンでしかない自我)が作ったイメージの一つ一つの背後に、真実が不変のままに存在しています。
Behind every image I have made, the truth remains unchanged.
愛の顔の上に私がかぶせたヴェールの一枚一枚の背後に、愛の光が明るさを減じられることなく存在しています。
Behind every veil I have drawn across the face of love, its light remains undimmed.
私の(自我の)狂気の願望を超越して私の意志があり、それは私の「父(である神)の意志」と一つになっています。
Beyond all my insane wishes is my will, united with the Will of my Father.
「神」はなおもあらゆる場所に、あらゆるものの中に永遠に在ります。
God is still everywhere and in everything forever.
そして、「父」の一部である私たちはあらゆる見せかけを見過ごして、そうしたものすべての彼方にある真実を認識します。
And we who are part of Him will yet look past all appearances, and recognize the truth beyond them all.


(30)
「神」は私の意識の中に在るがゆえに、私が見るすべてのものの中に在ります。
God is in everything I see because God is in my mind.

私自身の意識の中に、(神との)分離と(自我の)攻撃のありとあらゆる狂気の思いの奥には、すべてのものは永遠に一つであるという知識があります。
In my own mind, behind all my insane thoughts of separation and attack, is the knowledge that all is one forever.
ありかを忘れたからと言って、その知識を失ったわけではありません。
I have not lost the knowledge of Who I am because I have forgotten it.
私が「誰」であるかについての知識は「神の意識」の中に私のために保たれてきたのであり、「神」は「神の思い」を去ってはいないのです。
It has been kept for me in the Mind of God, Who has not left His Thoughts.
そして、私は「神の思い」の中にあり、それらと一つであり、「神」と一つです。
And I, who am among them, am one with them and one with Him.

聖霊とのお付き合い

師の言葉より・・・。

神とわたしたちの中間にいるのが聖霊。

聖霊って言われても、わたしには声なんか聞こえないし、イメージもできないし・・・と思う人の方が多いでしょう。

でも、本当は誰でも、聖霊が導いていることを知ることができます。

自我は絶対にそんなことできないとわたしたちに思わせようとしますが、それは声や音として聞こえるものでなく、感覚としてこっちだというものがわかってくるかもしれません。

ただ、そこは練習次第。

これまでわたしたちは何万回も自我の声を選択しつづけ、聖霊の声や導きを無視してきたのですから、それを超える勢いで、ひたすら聖霊の声を選択しつづけようとすることが大切です。

初めのうちは、大切な決定事項について聖霊に問いを発すると必ず自我やノイズが入ってしまうので、簡単なものから始めていくとよいでしょう。

たとえば、コンビニで飲み物を選ぶ際に問いを発してみる、お菓子コーナーに行って必要なものを訊いてみる、その日の服に関して問いを発してみるとよいでしょう。

いつもならこんな選択しないなと思うことがでてくるかもしれませんし、何度もくり返すうちに必ずわかります。

そうしていると、買い物で言えば、本当に必要なものだけ買うこととなり、気づけば、これまで埋め合わせで買っていたお菓子などを手にしなくなっているかもしれません。

(着物を着ている師の一例としては・・・。
出掛ける際に、いつもは柄の足袋を履くのに、その日は聖霊が白い足袋をと言ったので、わからないながらも従うことに。すると、その日にたまたま着る準備ができていた着物はいつもの無地ではなくて江戸小紋という柄物。だから、白足袋だったのねという話がありました。聖霊はお見通し笑。)

聖霊は、「この夢や幻想(神から離れているという錯覚)から目覚めたい」というあなたの思いにはいつも協力してくれます。

そして、発した問いに関しては、時間差はあったとしても、あなたが気づけなかったとしても、「神のもとへ還りたいというあなたの祈りをいつも聞いていますよ」ということを聖霊は必ずなにかの形で見せてくれます。

ただ、聖霊はあなたが本当に幸せになることだけにしか関心がないので、あなたの問いが自我という分離感や欠乏感からきているものであれば答えることはできません。

もし、問いを発したのに答えが返ってこないというときは、あなたが気づいていないだけではないか、あるいは自我の欠乏感からその問いを発していないかをふり返ってみてください。

そして、どんなに些細なことでも、信じていても信じていなくても、問いを発しつづけてみてください。

誰でも、聖霊の導きに気づくことができるのですから。

生まれてきた目的

師の言葉より・・・。

自分の使命はなんだろうか。

自分はなんのために生まれてきたのだろうか。

誰でも、こんなことを考えたことが一度はあるのではないでしょうか。

自我というのは、自分だけが特別で、他の人々と差異がなければ自分がなくなってしまうと思っているので、自分だけの特別な役割や目的というものを求めたがります。

でも、奇跡のコースでくり返しでてくるように、わたしたちがこの世界にいるのは、ゆるしを通して、神の国へ還るため、神の子である本当の自分を思いだすためなのです。

ですから、すべての人の生まれてきた目的は同じで、たったひとつ、還ることだけなのです。

Lesson 55

今日の復習は以下のものになります。
Today's review includes the following:

(21)
私は物事を違った目で見ることを決意しています。
I am determined to see things differently.

私が今見ているものは、病、惨事、死のしるし(=時間が立つということは、日々、ただ老化というものに向かっていくということ)だけです。
What I see now are but signs of disease, disaster and death.
これが「愛する子」のために「神」が創造したものであるはずがありません。
This cannot be what God created for His beloved Son.
私がそのようなものを見ているという事実そのものが、私は「神」を理解していないという証拠です。
The very fact that I see such things is proof that I do not understand God.
したがって、私は(自分が)「神の子」(であるということも)も理解していません。
Therefore I also do not understand His Son.
私が見ているものは、私は「自分が誰であるかを知らないということ」を私に教えてくれます。
What I see tells me that I do not know who I am.
私は、私自身についての(自我のパターンにはまった)幻想を私に見せてくれる証人になるのではなく、私の内なる真実に対する証人を(自分の中に)観る決意をしています。
I am determined to see the witnesses to the truth in me, rather than those which show me an illusion of myself.


(22)
私が見ているのは、復讐の一つの形です。
What I see is a form of vengeance.

私が見ている(自我に基づいた見方で見る)世界は愛情に満ちた思いの表れであるとはほとんど言えるものではありません。
The world I see is hardly the representation of loving thoughts.
私が見ている世界はあらゆるものがあらゆるものを攻撃している映像です。
It is a picture of attack on everything by everything.
それは「神の愛」と「神の子」の愛の反映とは程遠いものです。
It is anything but a reflection of the Love of God and the Love of His Son.
この映像の原因となっているのは私自身の攻撃の思いです。
It is my own attack thoughts that give rise to this picture.
私の愛に満ちた思い(を思い出すこと)が、世界についてのこの(誤った)知覚から私を救い、「神」が私に意図された安らぎを私に与えてくれます。
My loving thoughts will save me from this perception of the world, and give me the peace God intended me to have.


(23)
私は、攻撃の思いを放棄することによって、私が見ているこの世界から脱出することができます。
I can escape from this world by giving up attack thoughts.

ここに救いがあります。これ以外の場所に救いはありません。
Herein lies salvation, and nowhere else.
攻撃の思いを持っていなければ、攻撃の世界を見ることはできません。
Without attack thoughts I could not see a world of attack.
ゆるしによって愛が私の自覚に戻ってくるにつれて、私は安らぎと安全と喜びの世界を見ることになります。
As forgiveness allows love to return to my awareness, I will see a world of peace and safety and joy.
そして、今見ているものの代わりに、これを見ることを私は選択します。
And it is this I choose to see, in place of what I look on now.


(24)
私は、私自身にとっての最善の利益を知覚していません。
I do not perceive my own best interests.

私が誰であるかを知らないのに、私自身にとっての最善の利益に気づくことがどうして可能であり得るでしょうか。
How could I recognize my own best interests when I do not know who I am?
私の最善の利益であると私が思うことは、ただ私を(自我の)幻想の世界にさらに縛り付けるだけです。
What I think are my best interests would merely bind me closer to the world of illusions.
私だけの力では私自身にとっての最善の利益を知覚できないことを認識して、それが何であるかを発見するために「神」が私に与えてくださった「ガイド」の後についていく気持ちが私にはあります。
I am willing to follow the Guide God has given me to find out what my own best interests are, recognizing that I cannot perceive them by myself.


(25)
私は、どのようなものであれそれが何のためにあるのかを知りません。
I do not know what anything is for.

私にとって、あらゆるものの目的は、私自身についての私の(自我の)幻想が実在的であることを証明することにあります。
To me, the purpose of everything is to prove that my illusions about myself are real.
まさにこの目的のために、私はすべての人を、そして、すべてのものを利用しようとします。
It is for this purpose that I attempt to use everyone and everything.
このためにこの世界はあると私は信じています。
It is for this that I believe the world is for.
したがって、私はその実在的な目的を認識していません。
Therefore I do not recognize its real purpose.
私がこの世界に与えた目的は、この世界についての恐ろしい映像につながるものでした。
The purpose I have given the world has led to a frightening picture of it.
この世界に私が与えた目的を撤回し、この世界についての真実を学ぶことによって、この世界の(神の)実在的な目的に対して私の意識を開かせてください。
Let me open my mind to the world's real purpose by withdrawing the one I have given it, and learning the truth about it.

創造力

師の言葉より・・・。

わたしたちは、神から引き継いでいるとてつもない「創造力」をもっています。

自我(怖れ)による思い込みの中で創造する力を使った時には、必ず不足感につながりますが、そうした“足りない”という現実を永遠に創造しつづけることもできます。

一方、天の意志(天意)のままに創造することもでき、自分を単なるパイプとして創造力を自分の中に流した時には、本質が現れ、結果としてやすらぎや安心感につながります。

いずれにしても、わたしたちはいつも、この創造する力を使いたいと思っています。

なにかを創造しようと思ってうまくいかないときは自我に基づいて作ろうとしており(←こうあってほしい、など)、自分が単なるパイプになって(神の意図と一致して)創造力を流しているときは、いとも簡単に現実に反映させることができます。


簡単な例を・・・。

「神の使者」にもある通り、宇宙は拡大を続けており、エネルギーを出して表現したがっています。

わたしたちはこの3次元世界に出たがっているエネルギーを、(自分でやるんだというのではなく)自分を単なるパイプとして通したときには方向性を与えて使うことができます。

たとえば、スプーン曲げですが、自我が入らずに(自分でやろうとせずに)パイプになりきった状態で、エネルギーをスプーンを曲げることに使いたいと一点に集中すれば必ず曲がります。

また、神社に参拝する際も同じです。

神社というのもエネルギーを出したがっている場なので、各神社にそった祈りを発して存在するエネルギーに方向性を持たせれば、力を借りることができるのです。


一番簡単にわかりやすく実験ができるのは、飲み物や食べ物をよいものに変えてみることでしょう。

ある程度レッスンが進んでこれば、誰でもできるようになりますが、飲み物が入った2つのペットボトルを用意し、一方だけ、「自分に最適なものにな~れ」と意図します。

あるいは、しばらくの間、ペットボトルに光が流れ込むイメージをしてもよいでしょう。

その後、変容させたペットボトルとそうでないペットボトルをひとつずつオーリングテストをしてみれば、変容させた方はおそらく指が閉じるでしょう。

わたしたちは、いとも簡単に創造力を使って目の前のものや現実をつくりだしたり変えることができます。

自我というのはコントロールが好きで、こうでなければいやだと思っています。

でも、そのコントロールを手放した時には、神の意志や流れにそって創造力を使うことができるのです。

イメージとしては、ラーメン屋さんに入って、わたしたちができるのはチケットを買って出てきたものを味わうだけであり、味のコントロールはできないというのと同じです。

自我を手放し、自我に基づくエネルギーではなくて、やすらぎや安心感という源のものを使えば、わたしたちは必ず、目の前にやすらぎや安心感のある現実を創りだしていくことができるのです。

前世とカルマ

師の言葉より・・・。

わたしたちは、心の中にある原因を投影させて、現実世界に起こる出来事(結果)を見ています。

そのため、原因がなくならない限りは、形を変えて同じ現実が目の前にくり返されます。

人と人との縁において、深いものや特別なものを感じるから、前世からのなにか特別なつながりがあるのではないか・・・と考えたくなることもあるかもしれません。

運命の赤い糸であったり、前世からのライバル同士であったり、同志としての深い絆だったり・・・。

確かに、神ではなくてわたしたちが作りだした“特別性”というものはここにも存在はしており、過去からの積み重ね「カルマ」によって縁あって出逢っていることもあります。

自我はカルマに対してもよい悪いと意味づけをしますが、実際には、カルマは単なるパターンであり、よくも悪くもないものですが、心の中の原因がなくならない限りはカルマという型(パターン)がくり返されます。

しかし、よく考えてみると、カルマは「過去からのパターンの積み重ね」であり、この考えに則ると、わたしたちは時間の幻想の中に縛り付けられることになります。

奇跡のコースでは、時間が幻想であること、またすべての人が兄弟であり等しく神の子であることを学んでいますので、時間という幻想も特別という自我のパターンも本来は実在していないもので無意味なものです。

レッスンが進むにつれ、そうしたもの自体に意味がないことに気づき始めるときもいずれ来るでしょうが、現段階では特別性が大好きな自我がそうした縁を知りたがるということはあるかもしれません。

その場合も、前世にしろ、今生にしろ、心の中の原因が変わらない限りは同じ現実がくり返されているので、なぜ今生で出逢っているのか、お互いの中のなにを見るために出逢っているのかということは、前世を見るまでもなく、目の前の現実を注意深く見ていけば必ずわかるのです。

※“特別な関係”については、別記事で詳細を記載します。

2013年9月26日木曜日

Lesson 54

以下の見方が今日の復習のための見方です。
These are the review ideas for today:

(16)
私には中立的な思いはありません。
I have no neutral thoughts.

すべての思いには力があるために、中立的な思いは不可能です。
Neutral thoughts are impossible because all thoughts have power.
思いは偽りの(幻想)世界を作るか、あるいは、私を(神の)実在的な世界へと導くかのどちらかです。
They will either make a false world or lead me to the real one.
しかし、思いが結果をもたらさないということはあり得ません。
But thoughts cannot be without effects.
私が見る世界は私の考えの過ち(=自我を通して世界や自分を見ようとし、それが見えると勘違いしていること)から生じるのと同じように、私の過ちが修正されることを許すと(神の)実在的な世界が私の目の前に現れます。
As the world I see arises from my thinking errors, so will the real world rise before my eyes as I let my errors be corrected.
私の思いは真実でも誤りでもないということはあり得ません。
My thoughts cannot be neither true nor false.
それらは真実か誤りのどちらかでなければなりません。
They must be one or the other.
それらがどちらであるかを、私が見ているものが私に示してくれます。
What I see shows me which they are.


(17)
私には中立的なものは何も見えません。
I see no neutral things.

私が見ているものは、私が考えていることを表しています。
What I see witnesses to what I think.
もしも私が考えないとすれば、私は存在ないのも同じです。
なぜなら、生命とはは『思い』だからです。
If I did not think I would not exist, because life is thought.
私が見ている世界を、私自身の意識の状態の表れとして私に見させてください。
Let me look on the world I see as the representation of my own state of mind.
私の意識の状態は変化できるということを私は知っています。
I know that my state of mind can change.
したがって、私が見ている世界も変化できるということを私は知っています。
And so I also know the world I see can change as well.


(18)
私は、私の見るという行為の結果を体験することにおいて一人ではありません。
I am not alone in experiencing the effects of my seeing.

私に(私一人だけで自己完結する)プライベートな思いがないとすれば、私にはプライベート(私一人だけで自己完結する)な世界を見ることはできません。
If I have no private thoughts, I cannot see a private world.
分離(=神と自分が離れている、神と自分がつながっていない)という狂った考えですら、私が見ている世界の基礎をそれが形成する以前に(多くの人々の集合的な無意識として)共有されなければなりませんでした。
Even the mad idea of separation had to be shared before it could form the basis of the world I see.
しかし、その共有は無(=人と人が自我と自我をただ、いたずらにぶつけ合うだけの虚しい空っぽの状態)の共有でした。
Yet that sharing was a sharing of nothing.
私は私の(神との)実在的な思いにも呼びかけることができますが、(神との)実在的な思いはすべてのものをすべての人と共有します。
I can also call upon my real thoughts, which share everything with everyone.
分離(=神と神の一部である自分が離れているていう幻想)の私の思いは他の人たちの分離に呼びかけるのと同じように、私の実在的な思いは彼らの中にある実在的な思いを覚醒させます。
As my thoughts of separation call to the separation thoughts of others, so my real thoughts awaken the real thoughts in them.
そして、私の(神との)実在的な思いが私に見せてくれる世界は、私の視力だけでなく彼らの視力にも見え始めるでしょう。
And the world my real thoughts show me will dawn on their sight as well as mine.

(19)
私は、私の思いの結果を体験することにおいて一人ではありません。
I am not alone in experiencing the effects of my thoughts.

私はいかなることにおいても一人ではありません。
I am alone in nothing.
私が考えることのすべて、私が言うことのすべて、私がすることのすべてが宇宙全体に教えます。
Everything I think or say or do teaches all the universe.
「神の子」が考え、話し、行動して無駄に終わるということはあり得ません。
A Son of God cannot think or speak or act in vain.
「神の子」はいかなることにおいても一人であることはあり得ません。
He cannot be alone in anything.
したがって、すべての意識を私の意識と一緒に変える力を私は与えられています。
というのは、私の力は「神」の力であるからです。
It is therefore in my power to change every mind along with mine, for mine is the power of God.


(20)
私は見ることを決意しています。
I am determined to see.

私の思いの共有される性質を認識して、私は『観ること』を決意しています。
Recognizing the shared nature of my thoughts, I am determined to see.
この世界の思考が変わったということを私に示してくれる証拠を私は観ます。
I would look upon the witnesses that show me the thinking of the world has been changed.
私を通してなされたことによって、『愛』が『怖れ』に取って変わり、『笑い』が『涙』にとって代わり、『豊かさ』が『喪失』に取って代わることができたという証拠をしっかりと観てみます。
I would behold the proof that what has been done through me has enabled love to replace fear, laughter to replace tears, and abundance to replace loss.
私は(神の)実在の世界を見て、私の意志と「神の意志」は一つであることを(神の)実在の世界に教えてもらいます。
I would look upon the real world, and let it teach me that my will and the Will of God are one.

努力と時間

師の言葉より・・・。

わたしたちが今生きている世界では、なにかをしたり叶えるには、時間をかけることがよい、あるいは時間をかけなければできないという概念があたりまえのように根づいています。

そのため、たとえば、こうしたいという願いが叶ったり、これがほしいと思った物が現実化されるにはタイムラグがあります。

時間という幻想の中で生きているため、時間で証明するしかないのです。

しかし、本当の本当は、したいと思うこと1点に意識をフォーカスさせれば、誰でも、時間がかかることなく現実化させていくことができます。

時間をたくさんかけて努力しなければいけないというのは、自我が作りだした幻想です。

これもまた、分離が本物だと思わせる自我のまやかしの饅頭なのです。

Lesson53について

☆翻訳者より☆

自我は「これから何かをするべきことがある」とあなたの心に思わせます。

『これからなにかすべきことがある。それができるかどうかあなた次第』という世界が自我の描く絵の基本構想。

これはすでに疲れているあなたの心から最後の力さえ奪ってしまうような世界。


聖霊は、

『すでにすべては為されているあなたにすべきことは何一つない。
“ただ幸せを受け取り、与えるだけ。森の動物、植物たちのように”』 という。

自我はこれを完全に否定し、疑う。

「そんなふうに生きられるはずがない」

もう一つの声が問う。

「あなたはどんな存在でありたいのだろう」

この問いはあなたの心を目覚めさせる力を持つ。

「あなたはどんな存在でありたいのだろう」


さて、復習は、1レッスンにつき2分。ひとつのレッスンの文章を読んで、2分それについて考えたら、次のレッスンに移って、同じようにします。

1日を通し、できる範囲で復習するようにします。

レッスンの復習と同時にリアルレッスンとして、現実の生活や仕事や人間関係、あるいは自分自身に関して、レッスンの内容を考えさせられるような出来事のシンクロが起こる場合もあります。

ちょっとこの復習レッスンは、自我の抵抗が生まれる場合もありますが、その抵抗しようとする自我を観察するチャンスでもあるかもしれません。

Lesson 53

今日、私たちは以下の見方を復習します。
Today we will review the following:
 
(11)
私の意味のない思いは、意味のない世界を私に見せてくれています。
My meaningless thoughts are showing me a meaningless world.

私が自覚している(自我の)思いには何の意味もないのですから、自我が描き出すこの(幻想の)世界にはいかなる意味もあり得ません。
Since the thoughts of which I am aware do not mean anything, the world that pictures them can have no meaning.
この(自我から見た幻想の)世界が生み出しているのは狂気であり、(自我から見た幻想の)世界が生み出しているものが生み出すものもまた狂気です。
What is producing this world is insane, and so is what it produces.
(神の)実在は狂気ではなく、私には(自我という)狂気の思いもあれば(神の一部としての)実在的な思いもあります。
Reality is not insane, and I have real thoughts as well as insane ones.
したがって、観るためのガイドとして私の(神の)実在的な思いに頼れば、(神の)実在的な世界を観ることができます。
I can therefore see a real world, if I look to my real thoughts as my guide for seeing.


(12)
私の心が動揺しているのは、私が意味のない世界を見ているからです。
I am upset because I see a meaningless world.

(自我の)狂気の思いは心を動揺させます。
Insane thoughts are upsetting.
(自我の)狂気の思いはどこにも秩序のない世界を生み出します。
They produce a world in which there is no order anywhere.
混沌とした世界を代表する世界は混沌だけが支配します。
そして、混沌にはいかなる法則もありません。
Only chaos rules a world that represents chaotic thinking, and chaos has no laws.
私はそのような(自我の共同幻想の)世界の中で安らかに生きることはできません。
I cannot live in peace in such a world.
私はこの(自我から真実を歪めて見る)世界が実在しないことに感謝しています。
そして、私がそれ(=自我から見えるもの)を価値のあるものと見る選択をしなければ、この(自我の共同幻想の)世界をまったく見る必要がないことに感謝しています。
I am grateful that this world is not real, and that I need not see it at all unless I choose to value it.
そして、私は、完全に狂っていてまったく意味のないもの(=自我の見方=本質の自分とは全く違うもの)を価値のあるものと見る選択はしません。
And I do not choose to value what is totally insane and has no meaning.


(13)
意味のない世界は怖れを生み出します。
A meaningless world engenders fear.

完全に狂気(とでもいうべき)であるもの(=自我の見方=本質の自分とは全く違うもの)は怖れを生み出しますが、その理由は、それは完全に信頼不可能であり、信頼の根拠を何も差し出さないからです。
The totally insane engenders fear because it is completely undependable, and offers no grounds for trust.
狂っているもの(=自我の見方=本質の自分とは全く違うもの)はいかなるものといえども当てにすることはできません。
Nothing in madness is dependable.
それはいかなる安全も、いかなる希望も提供することはありません。
It holds out no safety and no hope.
しかし、そのような(自我の共同幻想としての)世界は実在的ではありません。
But such a world is not real.
私はその(自我の)世界に実在性という幻想を与えました。
そして、その世界を信じたがゆえに苦しんできました。
I have given it the illusion of reality, and have suffered from my belief in it.
今、私はこの信念を撤回し、(神の)実在に私の信頼を置く選択をします。
Now I choose to withdraw this belief, and place my trust in reality.
これを選択することにおいて、私は怖れの世界の結果のすべてから脱出するでしょう。
なぜなら、私はそれが存在しないことを認めているからです。
In choosing this, I will escape all the effects of the world of fear, because I am acknowledging that it does not exist.


(14)
「神」は意味のない世界を創造しませんでした。
God did not create a meaningless world.

もしも「神」が意味のない世界を創造しなかったとすれば、それが存在することがいったい可能であり得るでしょうか。
How can a meaningless world exist if God did not create it?
「神」はすべての意味の「源」であり、実在的なもののすべては「神の意識」の中にあります。
He is the Source of all meaning, and everything that is real is in His Mind.
それは私の意識の中にもあります。なぜなら、「神」がそれを私と一緒に創造したからです。
It is in my mind too, because He created it with me.
完璧に創造されたものとして私の故郷があるというのに、どうして私は自分自身の狂気の思い(=自我の見方=本質の自分とは全く違うもの)の結果に苦しみ続けるべきでしょうか。
Why should I continue to suffer from the effects of my own insane thoughts, when the perfection of creation is my home?
私の決断の力を私に思い出させてください。
そして、私が本当に住んでいる場所を私に認識させてください。
Let me remember the power of my decision, and recognize where I really abide.


(15)
私の思いは私が作ったイメージです。
My thoughts are images that I have made.

何であれ私が見るものはすべて私の思いを反映します。
Whatever I see reflects my thoughts.
私がどこにいるか、そして、私が何であるかを私に告げるのは私の思いです。
It is my thoughts that tell me where I am and what I am.
苦しみや喪失や死のある世界を私が見ているという事実は、私は私の狂気の思いの表れだけを見ていて、私の(神の)実在的な思いがその恵み深い光を私が見ているものの上に投げかけることを許していないということを、私に見せてくれています。
The fact that I see a world in which there is suffering and loss and death shows me that I am seeing only the representation of my insane thoughts, and am not allowing my real thoughts to cast their beneficent light on what I see.
しかし、「神」の道は確実です。
Yet God's way is sure.
私が創ったイメージは「神」に打ち勝つことはできません。
なぜなら、私が作ったイメージが「神」に打ち勝つことは私の意志ではないからです。
The images I have made cannot prevail against Him because it is not my will that they do so.
私の意志は「神の意志」です。そして、私は「神」の前に他の神々を置くことはしません。
My will is His, and I will place no other gods before Him.

Lesson52について

☆翻訳者より☆

レッスン52は、これまでのやってきたレッスン6からレッスン10までを復習します。

レッスンを振り替えるために、まずは文章を読んで、1つ1つのレッスンに2分かけて、その内容について考えるようにします。(1レッスンに2分×5レッスン)

1日を通して、できる限り時間あればこの時間をとるようにします。

めんどくさいなぁという気持ちも沸き上がるかもしれません。

けれど、50日近くやってきたレッスンを無駄にせず、むしろ振り替えることでレッスンから吸収しつくしてしまった方が、損得勘定でいっと得なはずです。

レッスンのいくつかは、元のレッスンと文章表現が変わっていますが、もとのレッスンではなく、復習レッスンを元にして考えるようにします。

復習のレッスンを読み返せば、これまでどれだけ深いことを学んできたか、わかるかもしれません。

復習といっても、とてもとても大切な意味を含んだ毎日の復習レッスンです。

くれぐれも、復習レッスンを「わかってる」ていって心で軽いものにしないよう、今までのレッスンをどこまで吸収できているだろう、という気持ちと、今までのレッスンで掴みきれてないものは掴みきろうという思いで1日のうちできるだけ何回も何回も時間をとるようにされるといいかと思います。

Lesson 52

今日の復習は以下の見方を扱います。
Today's review covers these ideas:

(6)
私の心が動揺しているのは、そこにない何かを私が見ているからです。
I am upset because I see what is not there.

(神の)実在は決して恐ろしいものではありません。
Reality is never frightening.
(神の)実在が私を動揺させるということはあり得ません。
It is impossible that it could upset me.
(神の)実在は完璧な安らぎだけをもたらします。
Reality brings only perfect peace.
私の心が動揺しているとき、それは常に、私が作り上げた自我の幻想と(神の)実在を取り換えているからです。
When I am upset, it is always because I have replaced reality with illusions I made up.
幻想が心を動揺させるのは、私が幻想に実在性を与え、かくして、実在を幻想と見なすからです。
The illusions are upsetting because I have given them reality, and thus regard reality as an illusion.
「神」によって創造されたもので、私のこの混乱によっていかなる意味でも影響を受けるものはありません。
Nothing in God's creation is affected in any way by this confusion of mine.
私は常に本来的には無い自我という幻想の思い込みによって動揺させられています。
I am always upset by nothing.


(7)
私は過去だけを見ています。
I see only the past.

私は周囲を見回しながら、私が見ている世界を非難しています。
As I look about, I condemn the world I look upon.
私はこうすることを「見ること」と呼んでいます。
I call this seeing.
私はすべての人、すべてのものに関して、過去を恨みに思い、彼らを私の敵にします。
I hold the past against everyone and everything, making them my enemies.
私が自分自身をゆるし、私が「誰」であるかを思い出したとき、私は出会うすべての人、すべてのものを祝福するでしょう。
When I have forgiven myself and remembered Who I am, I will bless everyone and everything I see.
いかなる過去も存在せず、したがって、敵もまた存在しないでしょう。
There will be no past, and therefore no enemies.
そして、以前には見ることができなかったすべてのものを、愛を持って観ることでしょう。
And I will look with love on all that I failed to see before.


(8)
私の心は過去の思いにとらわれています。
My mind is preoccupied with past thoughts.

私は私自身の思いだけを見ています。そして、私の心は過去の思いにとらわれています。
I see only my own thoughts, and my mind is preoccupied with the past.
それでは、私は何をありのままに見ることができるのでしょうか。
What, then, can I see as it is?
私の心の中に『目覚め』現れないようにするために私は「過去(だけ)を見ている」ということを思い出させてください。
Let me remember that I look on the past to prevent the present from dawning on my mind.
私は「神」に逆らって時間を使おうとしていることを理解させてください。
Let me understand that I am trying to use time against God.
過去を与えてしまうことを思い出させてください。
そして、そうすることによって私は何も過去を手放すことをしていないことに気づかせてください。
Let me learn to give the past away, realizing that in so doing I am giving up nothing.


(9)
私はいかなるものもありのままには見ていません。
I see nothing as it is now.

もしも私がいかなるものもありのままに観ていないとしたら、私は何も観ていないと真の意味で言うことができます。
If I see nothing as it is now, it can truly be said that I see nothing.
私には今(この瞬間瞬間に)存在しているものしか見ることは(本当は)できません。
I can see only what is now.
選択とは、過去を見るか、それとも、現在(のこの瞬間瞬間)を見るかではなく、単に『観るか、それとも、観ないか』であるにすぎません。
The choice is not whether to see the past or the present; the choice is merely whether to see or not.
私が(自我のパターンによって)『見る』選択をしたもののために私はヴィジョン(魂が本来持っていたすスピリチュアルな視野)を失うという代価を払いました。
What I have chosen to see has cost me vision.
今、私は観ることができるようになるために、再び選択したいと思います。
Now I would choose again, that I may see.


(10)
私の思いには何の意味もありません。
My thoughts do not mean anything.

私には私だけ(で完結する)思いはありません。
I have no private thoughts.
しかし、私が自覚しているのは私だけの(自己完結してしまう)思いだけです。
Yet it is only private thoughts of which I am aware.
これらの思いは何を意味するのでしょうか。
What can these thoughts mean?
私だけの思いは(本来的には)存在しません。
したがって、私だけの思いには何の意味もありません。
They do not exist, and so they mean nothing.
しかし、私の意識は創造の一部であり、その「創造主」の一部です。
Yet my mind is part of creation and part of its Creator.
自分の哀れで意味のない"私だけの"思いによって本当は私のものであるもののすべてを不明瞭にしてしまうよりも、宇宙の思考につながった方がいいと私は(本当は)望んでいるのではないでしょうか。
Would I not rather join the thinking of the universe than to obscure all that is really mine with my pitiful and meaningless "private" thoughts?

幻想世界に生きる

師の言葉より・・・。

奇跡のコースには、今あなたが見ている世界を“幻想”だと言っています。

確かにその通りですし、完全に目覚めたときには、自我ではない楽しさや喜びや美しさに満ちあふれている実在の世界を観ることになります。

でも、「奇跡のコース」は、幻想だからといって現実世界のこと(仕事にしろ、家族にしろ、日常生活全般にしろ・・)を放棄してよいと言っているわけでは決してありません。

ちょっとイヤになることが続くと、どうせ幻想だから仕事だってどうでもいい、とか、汚れた部屋だって幻想だから掃除しないも~ん、とか、幻想だから身ぎれいにしなくたっていい、などと幻想を自我の都合のいいように使いたくなってしまうかもしれません。

これでは、奇跡のコースの本質と真逆になってしまいます。

奇跡のコースというテキストで学び、レッスンをし、現実世界において、どんどんゆるしを実践していくことがなにより大切になります。

現実社会において、次々とあなたの目の前にあらわれる人々やできごとに対し、ひとつひとつのゆるし(自我によって作られた幻想の解除)を実践することで自我から解放されていくのですから。

2013年9月19日木曜日

Lesson 51

☆翻訳者より☆

レッスン51からレッスン60までは、これまでやってきたレッスン1からレッスン50までを、1日5レッスンずつ復習するというものになります。

毎日5レッスンのレッスンを振り替えるために、まずは文章を読んで、1つ1つに2分かけて、その内容について考えるようにします。
(1レッスンに2分×5レッスン)

ただ読んで、2分それについて考えるだけです。

1日を通して、できる限り時間あればこの時間をとるようにします。

レッスンのいくつかは、元のレッスンと文章表現が変わっていますが、もとのレッスンではなく、今日の復習レッスンを元にして考えるようにします。

復習といっても、とてもとても大切な意味を含んだ毎日の復習レッスンです。

くれぐれも、復習レッスンを「わかってる」ていって心で軽いものにしないよう、今までのレッスンをどこまで吸収できているだろう、という気持ちと、今までのレッスンで掴みきれてないものは掴みきろうという思いで1日のうちできる範囲で時間をとるようにされるといいかと思います。

Lesson 51

今日の復習は以下の見方を扱います。
The review for today covers the following ideas:
 
(1)
私が見ているものには何の意味もありません。
Nothing I see means anything.

これがそうである理由は、私は(神の実在の世界には本来)無いものを見ているからであり、(神の実在の世界には本来)無いものは(私の本質にとっても)何の意味もないからです。
The reason this is so is that I see nothing, and nothing has no meaning.
私が見ることを学ぶためには、これを認識することが必要です。
It is necessary that I recognize this, that I may learn to see.
私が今見ていると考えるものが、ヴィジョン(=魂が本来持っている本質を見抜くスヒ゜リチュアル的な視野)にとって代わりつつあります。
What I think I see now is taking the place of vision.
ヴィジョン(=魂が本来持っている本質を見抜くスヒ゜リチュアル的な視野)がそれ本来の場所を占めることができるようにするために、私が今見ていると考えているものには何の意味もないと気づくことによってそれを手放さなければなりません。
I must let it go by realizing it has no meaning, so that vision may take its place.


(2)
私が見ているものに、それが私に対して持っている意味のすべてを私は与えています。
I have given what I see all the meaning it has for me.

私は見るもののすべてを(自我のパターンに基づき)価値判断してきました。そして、私が(自我で)見るのはこれであり、これだけです。
I have judged everything I look upon, and it is this and only this I see.
これはヴィジョン(=魂が本来持っている本質を見抜くスヒ゜リチュアル的な視野)ではありません。
This is not vision.
それは実在についての単なる幻想にすぎません。なぜなら、私の(自我による)価値判断は(神の)実在から遠く離れてなされたからです。
It is merely an illusion of reality, because my judgments have been made quite apart from reality.
私には私の(自我による)価値判断の中に妥当性の欠如を認識しようとする気持ちがあります。
なぜなら、私は「観たい」からです。
I am willing to recognize the lack of validity in my judgments, because I want to see.
私の(自我による)価値判断は私を傷つけてきました。私は(自我による)価値判断に従って見ることを望みません。
My judgments have hurt me, and I do not want to see according to them.


(3)
私は、私が見ているものを何も理解していません。
I do not understand anything I see.

私がそれを誤って(自我による)価値判断しているときに、見ているものを一体理解することができるでしょうか。
How could I understand what I see when I have judged it amiss?
私が見ているものは、私自身の思いの過ちの投影です。
What I see is the projection of my own errors of thought.
見ているものが理解不可能であるがゆえに、私は見ているものを理解できません。
I do not understand what I see because it is not understandable.
それを理解しようとすることに意味はありません。
There is no sense in trying to understand it.
しかし、それを手放して、見ることが可能で、理解することが可能で、愛することが可能なもののための場所を作ることには立派な理由があります。
But there is every reason to let it go, and make room for what can be seen and understood and loved.
私はただそのような気持ちを持つことによって、今見ているものをこれと交換することができます。
I can exchange what I see now for this merely by being willing to do so.
これは私が以前にした選択よりも良い選択ではないでしょうか。
Is not this a better choice than the one I made before?

(4)
これらの思いには何の意味もありません。
These thoughts do not mean anything.

私は「神」抜きで考えようとしているために、私が自覚している(自我からの)思いには何の意味もありません。
The thoughts of which I am aware do not mean anything because I am trying to think without God.
私が"私の"思いと呼んでいるものは私の(神の)実在的な思いではありません。
What I call "my" thoughts are not my real thoughts.
私の実在的な思いは、私が「神」と共に考える思いです。
My real thoughts are the thoughts I think with God.
私は私の実在的な思いを自覚していません。なぜなら、私の(自我による)思いをそれにとって代わらせてしまったからです。
I am not aware of them because I have made my thoughts to take their place.
私の思いには何の意味もないことを認め、それらを手放す気持ちが私にはあります。
I am willing to recognize that my thoughts do not mean anything, and to let them go.
私はそれらの考えがとって代わるべく意図されている考えによって、それらの考えがとって代わられることを選択します。
I choose to have them be replaced by what they were intended to replace.
私の思いは無意味です。しかし、すべての創造は、私が「神」と共に考える思いに依拠しています。
My thoughts are meaningless, but all creation lies in the thoughts I think with God.


(5)
私の心の動揺は、私が考える理由によるものであることは決してありません。
I am never upset for the reason I think.

私は私の思いを常に正当化しようとしているために、私の心の動揺が、私が考える理由によるものであることは決してありません。
I am never upset for the reason I think because I am constantly trying to justify my thoughts.
私は私の(自我の)思いを常に真実にしようとしています。
I am constantly trying to make them true.
私の怒りを正当化し、私の攻撃を保証するために、私はすべてのものを敵にします。
I make all things my enemies, so that my anger is justified and my attacks are warranted.
私が見るもののすべてにこの役割を課すことによって、どれほどすべてのものを乱用してきたかに私は気づいていません。
I have not realized how much I have misused everything I see by assigning this role to it.
私は私を傷つける思考体系、そして、私がもはや望まない思考体系を防御するためにこれをしてきました。私にはこれを手放す気持ちがあります。
I have done this to defend a thought system that has hurt me, and that I no longer want. I am willing to let it go.

Review1 Introduction

今日から、一連のレッスンの復習期間に入ります。
Beginning with today we will have a series of review periods.
ひとつの復習レッスンには、レッスン1から50にでてきた見方が5つずつ含まれています。
Each of them will cover five of the ideas already presented, starting with the first and ending with the fiftieth.
それぞれの見方の後には、復習の際に考えるべき短い文章がついています。
There will be a few short comments after each of the ideas, which you should consider in your review.
次のようにして練習を行います。
In the practice periods, the exercises should be done as follows:

一日の初めに、5つの見方と関連する文章を読みます。
Begin the day by reading the five ideas, with the comments included.
その後は、どの順序で5つの見方について考えてもよいですが、それぞれの見方を少なくとも1回は練習するようにしてください。
Thereafter, it is not necessary to follow any particular order in considering them, though each one should be practiced at least once.
それぞれの見方に2分程度かけて、まずはその見方と文章を読み、それからそれらについて考えます。(2分×5つの見方)
Devote two minutes or more to each practice period, thinking about the idea and the related comments after reading them over.
一日を通して、できる限り何度も行います。
Do this as often as possible during the day.
もし5つの見方のうちのどれか一つに特に惹かれる場合は、それに集中してください。
If any one of the five ideas appeals to you more than the others, concentrate on that one.
けれども、一日の終わりには、必ず、もう一度すべての見方を復習してください。
At the end of the day, however, be sure to review all of them once more.

練習の際には、それぞれの見方の後につづく文章を一言一句あるいはそのすべてをもらさずに頭に入れる必要はありません。
It is not necessary to cover the comments that follow each idea either literally or thoroughly in the practice periods.
それよりも、その中心的な見方に重点を置き、復習の一部として、それについて考えるようにしてください。
Try, rather, to emphasize the central point, and think about it as part of your review of the idea to which it relates.
見方と文章を読んだ後は、できれば、静かな場所でひとりになれるときに目を閉じて練習を行うようにしてください。
After you have read the idea and the related comments, the exercises should be done with your eyes closed and when you are alone in a quiet place, if possible.

今の段階では、こうした条件のもとで練習を行う必要があります。
This is emphasized for practice periods at your stage of learning.
しかし、いずれは、あなたが学んだことを適用するときに特別な環境は必要ないと学ぶ必要があります。
It will be necessary, however, that you learn to require no special settings in which to apply what you have learned.
すでに穏やかで静まったかに見える状況よりも、あなたが動揺を感じるような状況のなかでこそ、こうした学びが最も必要となるでしょう。
You will need your learning most in situations that appear to be upsetting, rather than in those that already seem to be calm and quiet.
あなたの学びの目的は、あなたがいつも静けさと共にあれるようにし、苦悩や混乱を癒すことができるようにすることにあります。
The purpose of your learning is to enable you to bring the quiet with you, and to heal distress and turmoil.
それらを避けて、自分ひとりになれる避難所を求めていたのではこの目的は達成されません。
This is not done by avoiding them and seeking a haven of isolation for yourself.

やすらぎはあなたの一部であり、あなたはただそこにいて、自分が置かれたどんな状況でもしっかりと経験することだけを求められているといずれ学ぶでしょう。
You will yet learn that peace is part of you, and requires only that you be there to embrace any situation in which you are.
そして、最終的には、あなたがいるところには限界がないことを学ぶでしょう。そのため、あなた自身と同じように、やすらぎもあらゆるところにあるということがわかるでしょう。
And finally you will learn that there is no limit to where you are, so that your peace is everywhere, as you are.

復習の目的のために、いくつかの見方は元の形とは多少違った形で記されていることに気づくでしょう。
You will note that, for review purposes, some of the ideas are not given in quite their original form.
その場合は、復習レッスンに記されている通りの形を用いてください。
Use them as they are given here.
元のレッスンに戻る必要も、以前に指示されていた通りに見方を適用する必要もありません。
It is not necessary to return to the original statements, nor to apply the ideas as was suggested then.
この時点では、私たちはこれまでに学んできた50の見方それぞれの関係と、それらがあなたを導いていく思考体系の一貫性に重点を置いています。
We are now emphasizing the relationships among the first fifty of the ideas we have covered, and the cohesiveness of the thought system to which they are leading you.

2013年9月15日日曜日

肉体の幻想

師の言葉より・・・。

あなたはスピリットであり、肉体ではありません。

肉体は、この幻想の世界で生きるための、単なる乗り物に過ぎません。

しかし、自我はあなたを肉体だと思わせようとして、ありとあらゆる手を使ってきます。

体の痛みや不調、お腹がすくという現象、病気やけがや死のリアリティも、わたしたちを肉体に縛りつけておくひとつの方法でしょう。

奇跡のコースが進んでいくと、本質の方のあなた、つまり、肉体ではないスピリットとしてのあなたを思いだしてゆくので、徐々に肉体に関して変化が現れるかもしれません。

たとえば、食べ物と肉体の関係について。

わたしたちは生まれたときから、食べなければ死んでしまうとか栄養不足になってしまうという共同幻想のなかに生きています。

でも、わたしたちがこの幻想世界で肉体を維持するのに必要なエネルギーは、本当はとても少ないのです。

わたしたちの食べなければ死んでしまうという“餓え”への無意識の恐怖によって、本当に必要な量がどれくらいかがわからなくなっています。

また、様々な怖れから、必要でないものを埋め合わせとして食べていることも多いでしょう。

レッスンが進むにつれ、気づかないうちに、これらの自我が解体されたり、怖れが消えていくことにより、あなたの体にとって必要なものや量が自然とわかるようになっていきます。

スピリットとしての徹底的に現実的なあなたの姿を認めたとき(あなたは肉体ではないと知ったとき)、この幻想の世界であなたが最も輝けるような最適な体に自然となっていくのです。

それに伴い、食べ物の好みが変わったり、なにもしていないのに体型が変わったりということもあるかもしれません。


※肉体がないとは・・・
たとえば、瞑想をしているときなど、一瞬でも体が消えてふわっとした感覚を体感されたことがあるかもしれません。あるいは、ただただ静けさのなかにいるような感覚であったり。
このようなものがわたしたちの本質であり、肉体は単なる容れ物、乗り物なのです。

頑張ること

師の言葉より・・・。

自我は、「努力して頑張ることがよいこと」、「頑張って自分でやるのがよいこと」だと思っています。

様々なことがいとも簡単にできてしまっては、「自分」という個性がなくなってしまって存在できなくなると自我は感じ、分離こそがすべての自我はわたしたちに「頑張らないと負けてしまうよ」「頑張らないと罰があたるよ」と囁きかけてきます。

自我を手放したら、本当に個性はなくなってしまうのでしょうか。

わたしたちは、苦しい思いをして頑張らなければ幸せになってはいけないのでしょうか。

そんなことは決してなく、むしろその逆です。

たとえば、あなたと関わりのあるすべての人を思い浮かべてみてください。

その人たち全員で、同じ歌を歌いながら踊ったときには、同じことをやっていていも全員が全く違うように見えるでしょう。

それと同じなのです。

わたしたちが自我のパターンを手放していったときには、本来神から与えられた光が、それぞれに様々に輝きだすのです。

そして、そのときには、自我ではなく神(や聖霊)とともにあるので、あなたの願いややりたいと感じること、楽しそうだなと思うことが神の大いなる流れと一致し、苦しんで努力したり頑張ることなく、幸せな方向へ行けるのです。

Lesson50について

☆翻訳者より☆

とうとう、レッスン50まで来ました。

レッスン30以降から、神・神・神と神ばかりでてきましたが、この奇跡のコースはもちろん宗教といったたぐいのものでは一切ありません。

むしろ、宗教の真逆に位置するものです。

なぜならば、この奇跡のコースは、依存をさせることも促しませんし、偶像崇拝は自我の幻想としています。

外側のものに答えを見つけようとするのではなく、あくまでもレッスンを通して自分自身を見つめるというものです。

このあたりについては、「神の使者」ゲイリー・レナード著について詳しく書かれています。

初めて読んだ時は難解だったり、何を言っているのか訳がわからないかもしれません。

しかし、何回か読むと、今やっているレッスンがどれほど凄いことをしているのかがわかってくるかもしれません。

Lesson 50

私は神の愛によって支えられています。
I am sustained by the Love of God.

今日も、明日も、時間の続く限りずっとあなたが直面するであろう、あらゆる問題に対する答えがここにあります。
Here is the answer to every problem that will confront you, today and tomorrow and throughout time.
この世界において、あなたは「神」以外のすべてのものによって支えられていると信じています。
In this world, you believe you are sustained by everything but God.
あなたの(自我から感じる)信頼はもっとも些末で狂気じみた象徴の上に置かれています。すなわち、薬やお金、体裁を保つための衣服や影響力、名声、人に好かれること、"正しい"人たちを知っていること、そして、あなたが(知らず知らず)魔法の力を授けている、意味の無いリストに終わりはないのに、あなたの(自我から見た)信頼はそれに置かれています。
Your faith is placed in the most trivial and insane symbols; pills, money, "protective" clothing, influence, prestige, being liked, knowing the "right" people, and an endless list of forms of nothingness that you endow with magical powers.

こうしたもののすべては、「神の愛」と取り替えたものです。
All these things are your replacements for the Love of God.
こうしたもののすべてが、肉体(という幻想)への帰属意識を確実なものとするために大切にされています。
All these things are cherished to ensure a body identification.
こうしたもののすべては自我(エゴ)を褒め称える歌です。
They are songs of praise to the ego.
(本質的に)価値のないものにあなたの信頼を置かないことです。
Do not put your faith in the worthless.
価値のないものがあなたを支えることは(本質的には)ありえません。
It will not sustain you.

「神の愛」だけがあらゆる状況においてあなたを守ってくれます。
Only the Love of God will protect you in all circumstances.
「神の愛」はあなたをあらゆる試練から救い上げ、(自我から)知覚されるこの世界のあらゆる危険よりもはるか高い次元のところまであなたを持ち上げて、完璧な安らぎと安全な場所へと連れて行ってくれるでしょう。
It will lift you out of every trial, and raise you high above all the perceived dangers of this world into a climate of perfect peace and safety.
「神の愛」は、いかなるものも脅かすことができない、いかなるものも乱すことのできない意識の状態へとあなたを連れて行き、そこでは、いかなるものも「神の子」の永遠の静けさの中に邪魔することはできません。
It will transport you into a state of mind that nothing can threaten, nothing can disturb, and where nothing can intrude upon the eternal calm of the Son of God.

(自我の)幻想の上にあなたの信頼を置かないでください。
Put not your faith in illusions.
(自我の)幻想はあなたを裏切るでしょう。
They will fail you.
あなたの信頼のすべてをあなたの内なる「神の愛」に置いてください。それは永遠であり、不変であり、永遠に裏切ることのないものです。
Put all your faith in the Love of God within you; eternal, changeless and forever unfailing.
これこそ、あなたが今日直面しているあらゆるものに対する答えです。
This is the answer to whatever confronts you today.
「神の愛」を通して、一見困難に見える事柄のすべてを、努力することなく、確実な自信をもって解決することができます。
Through the Love of God within you, you can resolve all seeming difficulties without effort and in sure confidence.
今日、これを何度も自分自身に言い聞かせてください。
Tell yourself this often today.
それは、(自我が見てきて、信頼してきた)虚像に対する信念からの解放宣言です。
It is a declaration of release from the belief in idols.
それは、あなた自身についての真実をあなたが受け入れることです。
It is your acknowledgment of the truth about yourself.

今日は、10分の間、朝と夕方1回ずつ、今日の新しい見方をあなたの意識の奥深いところへとしみこませてください。
For ten minutes, twice today, morning and evening, let the idea for today sink deep into your consciousness.
今日の新しい見方《私は神の愛によって支えられています。》を繰り返して言い、それについて考え、関連した思いがやってきて今日の新しい見方《私は神の愛によって支えられています。》の真実性をあなたが認めるのを助けてくれるのに任せ、まるでしっかりと守ってくれる毛布のように安らぎがあなたの上を覆ってくれるのに任せてください。
Repeat it, think about it, let related thoughts come to help you recognize its truth, and allow peace to flow over you like a blanket of protection and surety.
「神の子」の神聖な意識に取りとめもない(自我の)愚かな思いが入ってきて心を乱すことのないようにしてください。
Let no idle and foolish thoughts enter to disturb the holy mind of the Son of God.
「天の王国」とはそのようなところです。
Such is the Kingdom of Heaven .
これこそ、あなたの「(真の)親」があなたに永遠に居場所としてして与えた休息の場所です。
Such is the resting place where your Father has placed you forever.

Lesson49について

☆翻訳者より☆

レッスン39は、さっと文章を読んでみて、自我という私たちの幻想が、早速、「自分に神のささやきなんて聞けるわけないよ」なんて、私たちが神聖性に向かおうとすることを邪魔しようとするかもしれません。

自我からすれば、私たちが自我の潜在的な怖れに基づいた否定的なおしゃべりを聞かなくなってしまって、神の声・聖霊の声を聞くようになってしまったら居場所がなくなってしまいます。

これまでずっと、自我を私たち自身だと錯覚させ、思い込ませて乗っ取ってきたのに、私たちが自我は私たち自身の本当の姿ではないと見破られたら、困ってしまいます。

あの手この手で、自我のおしゃべりをして、練習をやめさせたり、諦めさせたりしようとするはずです。

でも、その自我のおしゃべりを見抜き、そこを突き抜けて神の声を聞こうとする練習です。

聞こえても聞こえなくても、自我のおしゃべりを自分ではない、自分の真の思いではないと見抜こうとし続けることが大切です。

練習の時以外でも、ご飯を食べるようとするとき(作ろうとするときや選ぼうとするとき)、コンビニやスーパーに行く時、「ねぇ、今の自分に必要なものは何?」って聖霊に聞き続けながら行動してみます。

すると、いつもの自分だったらこうする、これを選ぶっていうのとは、ちょっと違うものを選びたくなったり、あるいは、いつものポテトチップスやチョコレートがなぜか「今は必要ないかな」と自然に思えたりします。

こんな些細なところから始めたら、ちゃんと聞けます。

どうか、「自分にはできない」「自分はできるわけない」「そんなことありえない」という自我のおしゃべりを突き抜けてみようとしてみてください。

Lesson 49

神の声は一日中私に語りかけます。
God's Voice speaks to me all through the day.

(日常の)いつもしていることを中断することなく、一日中、「神の声」に耳を傾けることは十分可能なことです。
It is quite possible to listen to God's Voice all through the day without interrupting your regular activities in any way.
あなたの意識の中の「真実」が住んでいる部分は、あなたがそれを気がついていようといまいと、「神」と常にコミュニケーションをしています。
The part of your mind in which truth abides is in constant communication with God, whether you are aware of it or not.
(この世的な多くの人が陥っている自我という誤った集団的な共同幻想が信じ込んでいる)この世界で役割を果たして、この世界の法則に従っているのは、あなたの意識の別な部分です。
It is the other part of your mind that functions in the world and obeys the world's laws.
いつも注意をそらされ、まとまりがなく、非常に確信が持てないでいるのはあなたの意識のこの部分です。
It is this part that is constantly distracted, disorganized and highly uncertain.

「神の声」に耳を傾ける意識の部分は、落ち着いており、常に安らいでいて、100パーセント確信しています。
The part that is listening to the Voice for God is calm, always at rest and wholly certain.
実際のところ、それが存在する意識の唯一の部分です。
It is really the only part there is.
その他の部分は、(自我の)見当違いの幻想であり、狂気じみて取り乱していますが、いかなる種類の実在性もありません。
The other part is a wild illusion, frantic and distraught, but without reality of any kind.
今日は、意識の(自我による誘惑の)その部分に耳を傾けないように努めてください。
Try today not to listen to it.
静けさと安らぎが永遠に君臨している意識の部分に、自らの居場所を持つように努めてください。
Try to identify with the part of your mind where stillness and peace reign forever.
あなたの「創造主」は「自分の子」を忘れたことなどないことを思い出すように「神の声」があなたに愛情をこめて呼びかけているのを聞こうとします。
Try to hear God's Voice call to you lovingly, reminding you that your Creator has not forgotten His Son.

今日は、少なくとも4回の5分間の練習が必要です。可能であればそれよりも多くやるとよいでしょう。
We will need at least four five-minute practice periods today, and more if possible.
「神」と「本当の自己」をあなたに思い出させようとする「神の声」を実際に聞くように努めます。
We will try actually to hear God's Voice reminding you of Him and of your Self.
私たちはさまざまな思いの中でも最も幸せで神聖なこの思いに自信をもって取り組みます。そうすることによって、私たちの意志を「神の意志」と一つにしていることを(あなたの意識のある部分は本当は)知っているからです。
We will approach this happiest and holiest of thoughts with confidence, knowing that in doing so we are joining our will with the Will of God.
「神」はあなたに「自分の声」を聞いてほしいと思っています。
He wants you to hear His Voice.
「神」は「自分の声」を聞いてもらえるようにあなたに与えられたのです。
He gave It to you to be heard.

深い沈黙の中で耳を傾けてください。
Listen in deep silence.
じっと静かに座ってあなたの意識を開いてください。
Be very still and open your mind.
あなたの実在的(=魂の本質的な)な思いに覆いをかけ、「神」との永遠のつながりをおぼろげなものしてさえき゛る耳障りな(心のおしゃべりの)叫び声や、うんざりするような(ネカ゛ティフ゛な)イメージの産物に気を取られることなく(それを突き抜けて)通過してください。
Go past all the raucous shrieks and sick imaginings that cover your real thoughts and obscure your eternal link with God.
この狂気の世界の血迷った騒々しい思いや、光景や、ざわめきの彼方であなたを待っている安らぎの中に深く沈んでください。
Sink deep into the peace that waits for you beyond the frantic, riotous thoughts and sights and sounds of this insane world.
あなたが住む場所はここではありません。
You do not live here.
私たちはあなたの本当の家にたどり着こうとしているのです。
We are trying to reach your real home.
あなたが真の意味で歓迎される場所にたどり着こうとしているのです。
We are trying to reach the place where you are truly welcome.
私たちは「神」にたどり着こうとしているのです。
We are trying to reach God.

今日の新しい見方《神の声は一日中私に語りかけます。》を頻繁に繰り返して言うことを忘れないでください。
Do not forget to repeat today's idea very frequently.
必要な時には目を開けてそうしてください。しかし、可能であれば目を閉じてそうしてください。
Do so with your eyes open when necessary, but closed when possible.
そして、この世界に対して目を閉じ、あなたは「神の声」があなたに語りかけるように招待していることを実感しながら、可能な時はいつでも静かに座って今日の新しい見方《神の声は一日中私に語りかけます。》を繰り返し言ってください。
And be sure to sit quietly and repeat the idea for today whenever you can, closing your eyes on the world, and realizing that you are inviting God's Voice to speak to you.